「できない」という経験の価値

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研究指導なんかもそうですけど,大学で研究指導する側の人って,大体「できる人」だと思うんですよ。今までできてきたからこそ指導する側に回れている。そういう人ってね,できない人の気持ちは分かるんだろうかと思うわけです。というか,できない人の気持ちが分からないからそういう指導になるんだろうなーとか正直思ってます。

「できない」人の指導が受けたい - 諏訪耕平の研究メモ

すごくよく分かる.頭がいい人の話って,論理が飛躍するというか,途中まではふむふむって思わされるんだけど,ある瞬間からずだーんってすっ飛ぶんですよね.その間を埋める理屈が分からないので,基礎とその応用しか分からず,応用的な発展ができないことがある.正に学部1年の時に受講した基礎電気回路がそれに相当していた.授業はテキスト通りに進むので,ふむふむと思いながら進んでいくのが,いざ演習になるとちんぷんかんぷんで,本当に授業でやった範囲なのか?という疑念を拭えなかった.解説では,「これはこれの応用で,これこれ適用します」とか説明するんだけど,全くチンプンカンプン.面白いほどに分からない.オレ,その時,大学の授業の恐ろしさを体感し,気を引き締めて授業を受けるようになりました.まぁ,回路の成績は振るわなかったわけですが・・・.

これは研究でも教育でも何でもかんでもそうだと思います.身の丈にあったものが1番ちょうど良いんです.誰かに何か指導をする時,自分を指導する相手に置き換えて,どうしたら良いかを考えます.しかしながら,何をどうしたって,自分は自分であって,他人とは絶対に違うものなので,そこは想像するしかないです.あくまで,限りなくそれっぽく想像することしかできません.その想像に関していえば,自分と同じレベルは想像しやすいです.もしくは,同じ境遇や過去に遭遇した問題は想像しやすいです.既に経験していることですから.そういう点から考えれば,「わからない」や「できない」や「しらない」といった経験していることは,想像する上での助力になると思う.だって,それを乗り越えてきているのだから,少なくとも同じ手法を当てはめてみるのは1つの手段だと思う.

この話は教育×破壊的イノベーションにも似たストーリーがある.

われわれの友人の一人は,仮にダンという名にしておくが,アメリカ西部の短期大学で会計学を学んだ.(中略)最初の学期の成績評価点(GPA)は四点満点中の一・五だった.(中略)「故郷に帰って家を継がれた方が良いと思いますよ」とアドバイザーは勧めた.(中略)「今に見ていて下さい」とかれはアドバイザーに反論した.「これから成績を上げて,必ず卒業して見せますから!」(中略)並々ならぬ努力の甲斐あって,ダンは修士号を取得した.(中略)ダンの卒業した短大の会計学の講師が突然病に倒れた.(中略)「うちで教えてくれるかもしれないぞ.」(中略)ダンはこう語っている.会計学を教えるようになって「突然わかったんだ!学生時代は何年も苦しみながら,根性と精神力だけで,ありとあらゆる法則を丸暗記していた.でもなぜそういう仕組みになっているのか,わかったためしがなかった.だが自分で授業の準備をして,教えなければならなくなったとたん,腑に落ちたんだよ!」

教育×破壊的イノベーション pp.140-141

ちょっと長いので端折ったら,意味が分からない文に・・・.要約すると,ダンは成績が振るわなくて,アドバイザーに「学校辞めた方がよくね?」風なことをいわれたんだけど,ぶち切れて「今に見てろよ!こんちくしょう!」モードに突入して,頑張って頑張って,修士まで出たんです.そしたら,同時期に会計学の講師が倒れられたので,教授陣が「ダン呼んじゃう?」みたいなノリで呼んだら,ダン大活躍ダンコーガイ!っていうストーリーです.よくわからないですね.原書を当たってください

思うには,大学における教育としては,「できる」人による教育も必要だし,「できない」人による理解と共感も必要であると思う.だから,大学教員が「できる」人だけで構成されていてはダメだと思う.学生が何故「できないか」を理解する人が必要だと思う.「なんでできないんだ?○○を××にするだけじゃないか」なんて,全く以て,チンプンカンプンです.微塵も理解できません.そして,思考停止に陥ります.どっちかっていうと,不信感と絶望だろうか.

教育においてできない人間の気持ちが分かることの重要性はかなり指摘されて久しいと思うのですが,残念ながら大学という場所において教育する側に立っている人々のほとんどは「できない」という経験が不足しているとは思いますね。

「できない」人の指導が受けたい - 諏訪耕平の研究メモ

だから一般的な認識で「できない」オレがここにいる意味はそこにだけあると思っている.それは研究の世界でも同じである.「できる」人達の集団では,「できない」人が置いてけぼりにされてしまう可能性があるので,「できない」人によって「できない」人が理解できるギリギリを残しておけるようにしないといけないんじゃないかと思う.「できる」人は「できない」経験をしていないのであれば,「できない」ということを想像するしかないが,実際に「できない」オレは想像するまでもなく体感できる.「できない」とか「わからない」という経験は,教育において素晴らしい体験の1つだと思う.

まとめ:
大学教員だって,学生と大して変わらない同じ人間です.何でもかんでも知ってるわけではなく,知らないことも,できないことも,色々あります.人間だもの.ただ,何が違うかって,その「できない」フェーズを何かしらの方法で乗り越えてきているということです.そこから学び取れるものって,学校では習わないことなんじゃないかなって思う.できなくてもいいじゃない.できるようになれば.

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