タグ「social」が付けられているエントリー

CSS2010 3E2-1を聴講して

| CSS2010 3E2-1を聴講して

CSS2010の3E2-1「ネットワークセキュリティ業界における産業と学術のギャップに関する一考察」を聴講して思ったことをTwitterにつぶやいて,3E2-1後日談としてTogetterしました.しかしながら,誤字が多かったり論理が飛躍していたりで不満足なので,ここに改めて書き直します.

「学術理論における現実適用に向けた考慮の不足」において,学術側は「真っ新な世界」,産業側は「既存技術との親和性」を前提条件としている旨が説明された.学術研究においては,ある問題を解決するためのモデルを構築する際に,どうすべきかどうあるべきかを理論的に最適なものを設計する.これが「真っ新な世界」である.また,目指すものは「最高のセキュリティ」であり,現状では達成困難なものがあるならまだしも,「妥協」は許されない.対して,産業側では現状で動いているシステムに対して,新しい機能を付け加えようと考える時,そのシステムの継続可能性,運用可能性,信頼性,コストとの兼ね合いなどを考えて,総合的な親和性を重視する.そのため,既存システムとの親和性を全く考慮しない学術側の提案システムは,完全なリプレースとなるために,製品として開発・導入することが難しいという問題があり,これが産学のギャップの1つと見られている.

これは何も製品レベルでの開発に限った話ではなく,DIYプログラミングでも発生する.例えば,卒研などでプログラムを組む際に,既存モジュールや過去の資産を再利用してプログラミングするのと,真っ新から新規に書き起こすのではコストが全く違う.コストだけにとどまらず,信頼性も全く違う.既存モジュールであれば,十分にテストされており,それなりの信頼性がある.そのため,そこに手を加えない限り,その部分はデバッグの対象外にしても良いかもしれない.そのようにすれば,開発の手間を大幅に削減することができる.これは逆に考えれば,新規コードを追加した場合は十分なテストが必要であり,それが信頼性に繋がる.「ちょっと書き加えるだけだから簡単でしょ?」などという人は概ねプログラミングに理解が少ないと思われる.確かに,一見動いているかのように見えるプログラムは準備できるだろうが,それを実戦投入した際には,想定外のトラブルを引き起こすことがある.

学術的な研究であっても,情報システムとして実際に使われることを想定する場合,如何に既存システムに手を加えることなく,今までできなかったことをできるようにするのかというテクニックは1つの重要な視点である.システムの評価項目にRASISというものがある.RASISはReliability,Availability,Serviceability,Integrity,Securityのそれぞれの頭文字を取った語である.このような用語があることからわかるように,これらは研究においても実用においても評価されることが多い.つまり,実運用可能なシステムを考える場合,「Securityだけ」ではダメで,もちろん「Reliabilityだけ」でもダメで,RASISそれぞれが運用可能なレベルで維持されていることが肝要となる.そのため,RASISを考慮したシステムでなければ,実用性は無いと言える.ちなみに,個人的には最初のSはServiceabilityではなく,Sustainabilityの方がいいのではないかと思ったりしてもいる.

RASISならびに既存技術との親和性なども考慮した場合,如何に既存技術に手を加えることなく,新しい機能を付け加えるために拡張するかという話になる.ややもすれば,単なる既存技術の組み合わせになるかもしれない.それはもちろん新規性はないだろう.しかしながら,従来ではできなかったことができるようになり,その有用性が高く評価されるのであれば,十分に価値があるものであると思う.

だが,学術界の実際においては,例えば論文の査読などにおいては,「本論文で提案されている方式は~~有用性はあるものと思われるが,既存技術の組み合わせに過ぎず,新規性が認められない.よって不採録と判定する.」などと判定されることがある.もちろん学術論文においては,新規性も有用性も信頼性も重要であるが,査読基準に照らし合わせればその全てが常に必要であるとは述べられていない.これについては情報処理学会の査読基準を引用したい.

例えば、新規性と有用性の内どちらかが高く読者にとって有益と判断される場合、あるいは現時点では有用性の判定が困難で、評価を読者あるいは将来に任せた方が良いと考えられる場合には、採録とする方針でお考え下さい。

新査読基準採用のお知らせ

このように述べられており,「新規性がないからダメ」という乱暴な判定は認められていないと思われる.しかし実際には新規性は必須要件であるかのような査読結果が返されることがままあるのは如何ともし難いところである.

新規性が必須であるという立場を取り,既存技術の組み合わせによって生み出される有用性を認めないという状況を想定しよう.例えば,「あるアルゴリズムをある問題に当てはめたところ従来困難とされていたことが解決された」というような論文に対して「単なる既存技術の組み合わせ(適用)に過ぎず新規性が認められない」と言いのけられるだろうか.これは難しいと思う.この手の問題の場合,問題が解決されたことに焦点が当てられ,解決手法の新規性は強く意識されないように思われる.しかし,情報システムやセキュリティに関しては,新規性が最重要項目かのように強調され,有用性が軽視されているかのような感覚を覚えてしまうのは何故なのだろうか.

学会としても実践的な取り組みや実用可能なシステムを軽視しているわけではもちろんない.それは情報処理学会がデジタルプラクティスを創刊したことからも明らかであろう.少しずつでもこの重要性が浸透していけば,学術側と産業側のギャップも少しは埋まるのではないかと思う.

関連:
JNSA 学術界とのギャップ解消検討BoF - 4403 is written
JNSA 第2回学術界とのギャップ解消検討BoF - 4403 is written
Togetter - 「3E2-1後日談」

4月に行われた第1回に引き続き,第2回が開催されたので,皆勤賞を継続するべく参加した.今回は参加するので精一杯で,ほとんどROM状態でした.いや,じゃぁ前回は活発に議論したのかと言えば,そうでもないorz.今回は大学所属の方が4名いらっしゃったので,ボクが沈黙しててもきっと大丈夫(他人任せ).

主催の@akirakanaokaさんがまとめをされるとのことなので,それにお任せして,ボクは雑感だけ.全く役に立ってないなorz.

今回も産業界からは「ギャップ」を埋める必要は無いのではないかという意見が寄せられた.確かに,ギャップを埋めたがっているのは一方的に学術界かもしれない.しかしながら,「学術界に歩み寄ることはない」(そこまではいってないけど)と言われてしまうと,学術界の存在意義って何だろうと思ってしまう.事実,そういう意識があるから,学術界側から産業界に歩み寄りたいというところがあると思う.

それはそれとして,議論の中に出てきて,とても興味深いなと思ったのが「最強のセキュリティ」だった.学術界の目指すセキュリティは「最強完璧絶対無敵」のものであり,高木先生のICSS11資料でも触れられていたように,社会で求められているものはオーバースペックではなく現実の問題が妥当な範囲で解決するものである.それをこの会では「そこそこセキュリティ」と表現しているわけです.

ところで「最強のセキュリティ」って何が最強なんでしょうか?一般的に,直感的に,「安全性」が最も高いということを現しているように思えます.たぶん,そうです.きっとそうです.でも,見方を変えれば,「そこそこセキュリティ」こそ「最強のセキュリティ」とも言えると思います.安全性は「そこそこ」だけど許容できる範囲で使い勝手がすごくよくてとてもクールなセキュリティ.それって「最強のセキュリティ」ですよね.「最強の」が「理論的に」とかではなく,「利用者にとって」であると良いなと思います.

それについては会の後に@aho1goさんとちょっとお話をしまして,「セキュリティのレベルは利用者が選択できるべき」という話になりました.通常,Webサービスでパスワードを利用する場合,そのWebサービスの言いなりです.例えば「英数記号混合大文字小文字混合で8文字以上」など.でも,そのセキュリティレベルに沿ったパスワードを使ったら,Webサービス側はボクたちの情報を守ってくれるんですか?といえば,全然そんなことはない.パスワード強度によるリスクをWebサービスは保証してくれないのに,利用者に押しつけている.だとしたら,そのセキュリティレベルは利用者が決定する権利を持つべきでしょう.例えば,多少リスクがあっても利便性をとってパスワードは数字4桁とか,リスクは取りたくないので英数記号混合大文字小文字混合32文字にする!とか.利用者がそういうセキュリティレベルを判断するための基準としてSP800-63かなと思ったりもします.こういう個人情報を預けて,こういうサービスを得るには,標準的にこの程度の安全性を設定した方が良いですよ,と.

長くなって疲れたので,この辺りで.

201007141230追記:
@akirakanaokaさんがエントリを公開されました

関連:
JNSA 第2回学術界とのギャップ解消検討BoF|EL TIO

4月15日にJNSAにて行われた学術界とのギャップ解消検討BoFに参加してきた.主催は@akirakanaokaさん.このBoFが開催されるに至った背景は以下のように述べられています.

ネットワークセキュリティでの学術と企業(産業)側のギャップを感じている中、そこを埋める話ができないか、ということで意見交換をできる場を設けようと考えました。まずJNSAの方にご相談させていただいたところ快く承諾いただいたので、学術からの参加者を募るべくコンピュータセキュリティシンポジウム(CSS 2009)のナイトセッションでプレゼンをし、その後暗号と情報セキュリティシンポジウム (SCIS 2010)で「DoS/DDoS攻撃対策に見る学術界と産業界のギャップ」と題した発表をさせてもらいました。

JNSA 学術界とのギャップ解消検討BoF まとめ|EL TIO

要点は@akirakanaokaさんのブログにまとめられているので,そちらにお任せするとして,私視点でのまとめを簡単に.

学術側,特に大学の立場でいえば,大学教員の業績はほとんどが原著論文によって評価される.原著論文とは,査読された論文誌等に掲載された論文のことである.論文の査読においては,新規性,有効性,信頼性などの観点から評価され,認められた場合,採録となる.ここで実用性という評価は聞いたことがない.実用性がないので不採録という評価はないと思われる.また,業績評価の対象には特許も含まれる.しかしながら,多くの大学教員にとって,特許出願するよりも論文投稿する方が簡単であると思われる.それは,特許出願書類の書きにくさにあると思われるし,サーベイの難しさもそうだし,なんといっても特許出願に見合うだけのインセンティブは受けられないからだと思う.

私は工学の人間なので,物を作るとか実際に使われるとかいうことに関して,強い興味がある.というか,動くモノを研究するのが工学だと思っている.しかしながら,例えば,何かしらの研究を行い,それが実用化され,製品化されたとして,業績評価されるだろうか?評価されないことはないと思うが,論文誌採録ほどの評価は受けないのではないだろうか?メディアに取り上げられたり,プレスリリースが出たとしても,それは業績評価されるのだろうか?単純にこういうところに,インセンティブに関わる大学側の問題があるように思われる.

産業側からは重要な指摘があった.「じゃぁ売り込みに来ればいいじゃない」って.確かにその通りであって,そうすることで製品化も見込め,工学の研究者としてはうれしい限りだろう.だがしかし,産業界と学術界とのギャップはすでにそのレベルで存在していて,恐らくは学術研究の成果はすぐそのまま製品化はできない.例えば,私が個人的にものすごく信じていないものに,スパムフィルタの研究がある.ベイジアンフィルタとか,コラボレートフィルタとか,SVM学習とか,様々な手法が提案されているが,私の偏見で言うならば,インテリジェンスなシステムは精度は上がるかもしれないが,実用に耐えないと思われる.それは計算時間や計算資源の問題からくると思う.もっと言えば,大規模システムへの導入を考えた場合,電力問題に直面する可能性がある.そのため,実際に利用するには,実用性と性能を鑑みる必要性がある.学術界,特に原著論文となると,新規性を求めていくので,理論上最強を目指していくと,実用性との乖離が生じてくる.これが産業界とのギャップを深めている気がする.

つまりは,産業界に技術を売りに行くのはごもっともだが,売りに行っても買ってもらえる代物がない!というのが現状で,買ってもらえるようにしたいんだけど,産業界が求めるものが全然解らないよ!というのが学術界の本音だと思う.そこを埋めたいねというのが,このギャップ解消の根底にあると思う.学術界としても論文を世に出すだけが社会貢献・社会奉仕ではないと当然考えているだろうし,産業界に貢献できるような研究ができれば,よりよいと考えているだろうし,それは最終的にWin-Winの関係に結びつくのではないだろうか.

今回のBoFに参加して感じたことは,産業界と学術界のギャップは思いの外に深かったという点.ややもすると,ギャップ解消を望んでいるのは学術界で,産業界の大半はギャップ解消を望んでいない(解消すればいいけど別に今のままでもいいよっていう意味)可能性が高そうな気がする.しかも,学術界を大学等の高等教育研究機関に絞り込むと,先に述べたインセンティブの問題で,それほどギャップ解消に積極的ではないかもしれない.

まとめ:
最初は細々とでも,一部の学術界と一部の産業界が意見交換ができれば良いと思う.それは真面目な会でも良いだろうし,飲み会でも良いと思う.そうして段々とお互いが歩み寄っていければ良いんじゃないかと思う.そのためには,学術界からのアプローチが重要に感じた.ということで,今年の情報セキュリティEXPOに行ってみようかと思ったりもしている.

201004220119追記:
眠いけどdisられたからがんばる.

民の立場ですごい横柄な言いっぷりをすると「顧客ニーズを教えてあげる.それを解決する要素技術を研究してくれるなら,それを使ってあげる」ということになる.

Re: JNSA 学術界とのギャップ解消検討BoF:exploit&ac:So-netブログ

ボクはそれでも良いと思っていて,実用性に乏しい理論研究をするのは工学として潔しとしていません.学術界として,いわゆる金にならない研究を金になるようにするためには,そういうニーズを的確にキャッチする必要性も大事かと思います.

学の提案する方式が実用的で実装可能かどうかについては触れられていません.

Re: JNSA 学術界とのギャップ解消検討BoF:exploit&ac:So-netブログ

ボクは学の提案している内容が実装可能かどうかは非常に重要だと思っていて,産が学の提案する方式を実装しない(できない)のは,そこに実装困難性(または非実用的な要素)が含まれていて,学が如何に現実から乖離した研究をしているかということを如実に現していると思っています.

というわけで,学のヒトの気持ちを理解するために一緒にお仕事したいので○○省さん,うちらにお金下さい.うまく使いますので(オチはそこかw)

Re: JNSA 学術界とのギャップ解消検討BoF:exploit&ac:So-netブログ

正直な話,本気でこの問題に手を入れるとするならば,ビッグブラザーの力を借りるのはありだと思います.問題は,そのテコ入れをするほどの根深さがあるかと言うこと.現状で世の中が回っている現状では難しそうな気がします.しかし,蓮舫議員よろしくで,社会貢献を目に見える形で実現するなら,そういうアプローチもあるかと思います.

ボク個人の意見では,遠巻きながらも,産学がざっくばらんに分かち合える環境があればいいと思います.それ,まずは飲み会でも良いじゃないですか.

入院中を利用して,生徒指導('06)を全15回分やっつけてきた.ここでは復習をかねて,まとめをしたい.

生徒指導は,教科指導も含めて,すべての教育時間,すべての教育空間における「機能」であると考えられているので,初等・中等教育における各教科の指導,道徳,特別活動のように教育課程のなかに位置づけられてはいない.文部科学省の「生徒指導上の問題についての対策」において,学校間の連携,学校と家庭との連携,関係諸機関・諸団体との連携が重要であると指摘されている.

フランスの社会学者エミール・デュルケムはEducation et sociologieの中で以下のように述べている.

「教育とは,成人世代が社会生活に未熟な世代に対して及ぼす作用である.教育の目的は,子どもが将来参加するであろうところの政治社会や,特定の社会集団の要求する一定の身体的・知的・道徳的状態を子どもの中に出現させ,かつ発達させることにある.一口でいうと,教育とは若い世代の方法的社会化である.」(佐々木交賢訳「教育と社会学」誠信書房,1976)

生徒指導('06) p.18 ll.14-19

生徒指導は生徒を理解することから始まる.個々の生徒を理解するとともに生徒集団をも理解しなければならないが,さらに生徒の行動や生徒集団の行動を規制したり,促進したりする学校文化をも理解しなければならない.そのためには,教師は常に生徒に接触して個々の生徒の性格,能力,態度,行動傾向,あるいは家庭的背景や交友関係,学校生活での様子を把握しておかなければならない.

教育という営為は,教育者と被教育者(学習者)との相互行為であり,コミュニケーション過程である.生徒に対する認知の歪みとして,ハロー効果(halo effect,後光効果)とステレオタイプ(stereotype,紋切型)がある.ハロー効果は,ある子どもに顕著な特製や行動の特徴があると,それに影響されて他の側面も事実以上に高く評価してしまうという現象である.また,教師の期待が生徒の学業成績や教室内での行動を規定するともいえる.これは,ピグマリオン効果(Pygmalion effect)と呼ばれ,教師が生徒に対して何らかの期待をもつと,生徒の学業成績や教室内での行動は教師が期待している方向に沿って成就するという現象である.このような初めの期待や思い込みが現実のものとなっていくことを自己成就的予言(self-fulfilling prophecy)という.

ハロー効果とピグマリオン効果からわかるように,生徒指導と教育は,教育者と被教育者との相互行為であり,そのコミュニケーションが重要であることは明白である.

三隅二不二のPM理論では,集団の目標達成機能(performance function)をP機能,集団維持機能(maintenance function)をM機能とし,この2つの機能の強弱を軸として教師のリーダシップ行動をPM型,P型,M型,pm型とした.この分類でいえば,私はM型に相当する.これら教師のリーダーシップと学級連帯性,生徒の学校に対する不満,生徒の学習意欲,生徒の規律遵守について分析が行われ,その結果,PM型>M型>P型>pm型の傾向があることがわかっている(参考文献:教師のリーダーシップ行動測定尺度の作成とその妥当性の研究).

まとめ:
生徒指導は生徒を読むことから始まり,教育者と被教育者との相互行為によって実現する.要するには,教育に費やした時間は決して無駄にはならないということ.逆にいえば,楽して教育なんて,ありえないってこと.教育は研究の片手間でできるようなものではないのです.

201004112350追記:
肝心なことを書き忘れた.テキストには多くの調査結果が掲載されており,統計処理されているのだが,それがいい加減.有意水準が0.01だったり0.05だったり.有意水準をかえて有意差があるかのように見せかけているんじゃないのかと疑ってしまう.棒グラフも一時期話題になったくらいヤバめなものでした.たぶんに印象操作されていそうです.でも,ボクにとって,このテキストに載っている統計的評価はどうでもいいです.そういう手法があるということと,そういう考え方があるということが大事です.

放送授業も残り2回となりました.第14回は「生涯学習社会の展望」です.

内閣府が2005年に実施した生涯学習に関する世論調査によると,生涯学習として,健康・スポーツが22.1%,趣味が18.9%,パソコン・インターネット関連が12.0%の実施となっている.皆さん,色々と生涯学習を実施しているのですね.生涯学習に似た言葉として生涯教育があります.これは1981年の中教審答申「生涯学習について」で以下のように定義されている.

今日,変化の激しい社会にあって,人々は,自己の充実・啓発や生活の向上のため,適切かつ豊かな学習の機会を求めている。これらの学習は,各人が自発的意思に基づいて行うことを基本とするものであり,必要に応じ,自己に適した手段・方法は,これを自ら選んで,生涯を通じて行うものである。その意味では,これを生涯学習と呼ぶのがふさわしい。

この生涯学習のために,自ら学習する意欲と能力を養い,社会の様々な教育機能を相互の関連性を考慮しつつ総合的に整備・充実しようとするのが生涯教育の考え方である。言い換えれば,生涯教育とは,国民の一人一人が充実した人生を送ることを目指して生涯にわたって行う学習を助けるために,教育制度全体がその上に打ち立てられるべき基本的な理念である。

生涯教育について(答申)(第26回答申(昭和56年6月11日))

教員という立場であれば,こういう情報を持っていて然りだと思うけど,普通に大学にいても,この手の情報に触れることはない.やはり,教育者たるもの,どこかで教育論を学ばないとダメですよね.教育に関しては我流は良くない!

生涯学習の社会的側面として,学歴社会の是正という観点がもたれるが,それについての注目すべき指摘がある.

市川照る午氏は,「人々の自発性に任せておいたのでは,学習量の多いものがますます多く学び,客観的に見て学習する必要の大きい者が少なく学ぶことになり,その結果,教育格差がますます拡大する」(市川,1981)と述べている.

教育社会学 p.215 ll.3-6

ウェブ進化論で指摘されている学習の高速道路に近いものを感じる.実のところ,生涯学習は必要なものではないので,自発的学習意欲のある者は学び,そうでないものは学ばないという構図になるだろう.教育機関においても,学生は自発的学習意欲を失っており,学ぶ力がなくなっている.その典型は研究室であって,自発性のある者はどんどん伸びるが,自発性のない者は今までの学生生活を帳消しにするかのように堕落していく.

生涯学習に限らず,学ぶという意欲を一度失ってしまうと,それを取り戻すことは至難である.例え意欲が少なくても,失ってしまうよりはいい.意欲を継続し続けることが大事なんだろうなぁ.そういう指導が大学では必要なのだろうなぁ.よくわかりません.

教育社会学第11回関連の話題から,社会における大学の位置づけについて書いてみようと思う.

義本 ただ、全国には世界で競い合う総合大学もあれば、教養教育を一生懸命にやる大学、地方で高等教育の機会をしっかりと支えている大学などさまざまな大学があり、大学での多様な学びを希望する人にその機会を保証するという観点からは、それぞれが大事な一翼を担っているわけですね。

大学特集-全入時代に変わる大学<産経新聞>

現在の大学は個々の様々な希望を受け入れるために,多様な学びを提供している.世界最先端の研究を推進する大学があれば,就職に強い大学,教養に長ける大学,国際色豊かな大学,手に職を付けさせる大学.実に様々であり,私の短いキャリアからしても,現職校と出身校では,その目的とする特色は異なっているように感じる.学生の雰囲気はそんなに違わないが.能力は違うけど.

これはこれとして,教育社会学より類似の話題を引用.

近代社会において学校教育は雇用市場への人材提供を主要な機能の1つとしてきました.しかし近年,学校の持つ人材形成機能に様々な問題が生じています.若年の失業やニート,フリーターなどの問題がその代表例です.

教育社会学('07) 第11回放送授業より

近年,ニートやフリーターが問題となっているが,その問題の一端は学校教育にあるという指摘である.高度成長期から90年代初頭にかけては,学校教育を終えれば,すぐに正社員として採用され,学校と企業の関係ができていて,学校も就職に当たった教育をそれほど行っておらず,企業に入ってからの教育に期待があった.それに対して,90年代半ば以降はこの状態が変化し,大学をいわゆる就職予備校のような位置づけにする動きがあることは否定できない.そのため,卒業すれば正社員として採用されるというキャリアパスが失われ,典型雇用と非典型雇用の2つの道ができてしまっている.

また,若者の就職状況が変化したことについて,新卒一括採用と教育の職業的意義の希薄さという点を指摘している.学校の中で職業的能力を身につけていない場合,学校から離れてしまうと,これからのキャリアに必要なスキルを身につけるのが難しくなっており,新卒の機会を失うと正社員としての雇用を受けることが難しくなっている.

私は企業人ではないので,新卒一括採用がどうなのかというのはわからない.大学人としてこの指摘の1つとして考え得るのは,社会における大学の立場だと思う.これからの大学教育においては,キャリアエデュケーションをしっかりと行う必要性があるのだと感じている.これは前期に受講した職業指導と通じるところがある.大学教育は中等教育の上を行く高等教育を施すだけにとどまらず,社会に人材を輩出する役目を担うべきところにきているのではないだろうか.教育は高等教育のみならず,職業指導をも含むべきであるし,研究のみならず,教育にも注力すべきである.そう,それは大学の役目であるのだから,各研究室の責務でもあると思う.一体何ができているだろうか.

納屋 それと関連して言いたいのは、「大学の本来の役割は教育である」ということです。昔の大学教員の大部分は「研究こそが大学の使命だ」と思っていたけれど、今の学生には、そういう論理は通用しません。大学の原点は「人材」をつくることであり、研究はもちろん大切だが、教育の場にその成果を生かす努力をしてもらわなければいけない。

教育の質を高めるためにFD(ファカルティー・ディベロップメント)をはじめ教育環境を整え、資金の裏付けなどさまざまな施策を講じましょうというのが今の大学改革なんです。

大学特集-全入時代に変わる大学<産経新聞>

常々私が主張している方向に向かいつつあるのだろうか.もしこれがこれからの大学教育改革の本流になるとするのであれば,乗り遅れたらすぐに取り残される流れだと思う.教育のできない大学教員は必要とされなくなるのだろう.

ちょっと前の話になるけど,ネット上で実名か匿名かという議論が巻き起こっていた.多少は追いかけてはいたんだけど,忙しい時期だったこともあり,あんまり真面目にみてはいなかったし,ブログにも取り上げなかった.今日は今更にその話を蒸し返してみる.

そもそも,ネット上の名前を題材にして議論すること自体が無意味なことだと思っている.たとえば,首相官邸ブログなるものが始まったようだが,これは鳩山由紀夫なのか?実名論者に言わせると,これは鳩山由紀夫でなくてはならないのだろうが,オレにはそのように思えない.たとえば,眞鍋かをりのブログは眞鍋かをりという実名(芸名だけど・・・)が出ているので,実名論者は大喜びのところだろうが,このブログは間違いなく確実に眞鍋かをりが書いているという保証はどのように得るのだろうか.スタッフやマネージャーが書いていないと何故言い切れるのだろうか.その確証が得られないレベルで言えば,実名が晒されていたとしても,その実名のものが書いている保証にはならないし,誰が書いているかを特定する根拠にはなり得ない.だから,実名のような仮名を使ったとしても,それが実名か仮名かは判断できないと思う.実名・匿名の議論はその程度の危うい信頼性の上での議論なので,実名を出したら根拠の保証になるかのような実名論者の考え方はよくわからない.

最近の話題をちょっと盛り込んでおくと,GReeeeNの話をあげておこう.GReeeeNのブログが炎上したらしい.彼らは顔出しをしておらず,リアルの人間が識別不能の状態になっている.なので,GReeeeNのブログが炎上したとして,本当に本人が書いているかどうかは識別できないと思う.だって,本当に本当に本当のGReeeeNの中の人が今まさに目の前にいたとしても,それをGReeeeNの中の人だと識別することはできないのだから.

実名論者が他にあげるメリットとして,リアルの人とつながりやすいってのがあるらしいですけど,そうでしょうか.それは実名でも仮名でも同じで,要はあるエンティティを識別可能とする識別子が割り当てられていればよろしいのだと思う.たとえば,オレに関して言うならば,本名(実名,リアル世界の名前)を名乗るよりも,4403と名乗った方が,明らかに話が通る.そういうオレでも実名でブログをやるメリットがあるだろうか?どう考えても,4403で活動した方がメリットが多い.最近に至っては,実名で論文を書くよりも,4403で論文を書いた方がいいのではないかとさえ思っている.論文は実名でなくてはならないという規定を見たことがないので,偽名(仮名)でもよろしいのではないだろうか.夫婦別姓も認められているわけだし.

そういう意味で,リアル世界に固執した実名・匿名の議論は意味をなしていないと思う.識別子だけが重要なんだ.だから,@akirakanaokaさんはリアル世界であうよりも先にTwitterで知り合ってしまったので,@akirakanaokaさんは@akirakanaokaさんで間違いない.@RruroさんはTwitterよりも先にリアルで出会っているので,@Rruroさんという識別子は認識しにくい.要は,その人を識別しようとしたときに,実名(リアルの名前)の方が識別しやすいか,仮名(ネットの名前)の方が識別しやすいかの違いだけだと思う.そこに,リアル名前=ネット名前である必然性はないように思う.

おっと,匿名が議論の外に出てしまったので,補足.匿名の場合,識別不能なので,今までの議論は適用できない.実名で書いた言葉は信頼性があるが,匿名で書かれたものには信頼性がないというのは本当なのだろうか.書いている中の人は同じでも,その著者名あるなしで根拠が異なるというのか?本当にそうなのか?だとすると,学会で一般的に行われているブラインド査読は意味をなさないだろう.著者が誰であるかを隠して査読するので,実名・匿名の議論で言うならば,匿名の状態である.彼らの主張を借りるならば,匿名で書かれたものは信用ならないのだ.ならば,論文査読の審査事項の要点である信頼性が欠如しているのだから,当然に論文は棄却されるだろう.匿名で書かれた言葉に信頼性がないというのは,その根拠を調べようとする努力を怠る怠け者の弁だろう.信用に足らない主張だ.

まとめ:
ネット上のアイデンティティを議論すること自体,不毛です.実名でも仮名でも匿名でも,なんでもかまわないと思う.実名のような識別子が本当に実名か仮名であるかの判断はどうするのか?全くの別人が他人の実名を名乗っている(仮名の状態)ことは想定しないのか?このブログは本当に4403が書いているのか?そもそもあなたは4403というネット世界の人物がリアル世界にバインドされていることを確認したのか?4403って存在するのか?有象無象の集合を4403と呼称しているのかもしれない.Anonymous Cowardのように.

そうだそうだ。昨日のCSSx2.0中での私のつぶやきは、いくつかが、隣に座られておりました昨年度Tシャツゲッター先生が打っていたということに触れておこう。 #css2009

Twitter / Akira Kanaoka: そうだそうだ。昨日のCSSx2.0中での私のつぶやき ...

このような主張がなかったとして,その違いを見つけることはできただろうか.はたまた,この主張があったとして,そのいくつかを見つけられるだろうか.そもそも,この主張は真実なのだろうか.こういうことを考え始めると,それを考えること自体に無理がありそうです.

地方開催の学会の場合,学生を連れて飲みに行くことがあるわけです.そうなると,指導教員はどかーんとお金を出すわけです.そのはなし.いや,支払いをすること自体は別にいいんだけど,気持ちよくお金を出せるように立ち振る舞って欲しいよねっていう話.最初から「どうせおごってくれるんでしょ?呑むだけ呑んでやるぜ.いえーい!」みたいな態度だと,げんなりなわけです.

たとえば,ビールの減り具合を見るとか,呑むペースを見るとか,猪口の中身があるのかないのかとか,金を出すであろう人に「何か少し頼みますか」って振ってみるとかさー.なんで金を出す側が気を遣って接待しなきゃいけないのかがわからない.おごられるってのはそういうことなんじゃないのかしら.そりゃぁ気がつくまでお猪口でピロピロしちゃいますよ.

あとは大人数で飲みに行くと,ボス(指導教員)1人に対して学生多数となるわけで,ボスだけ浮いた存在で,話に入れなかったりするので,話を聞いてあげて!もてなして!もてなし重要.

最終的に,「ははは!こやつらめ!ういやつよのう!」くらいの気分で支払いをしたいです.気持ちよく支払いをしたいです.指導教員は単に都合のいい財布じゃないです.学会に行ったらおごってくれる便利な存在でもないです.

まとめ:
ということを考えると,ボスの羽振りから考えるに,満足度はそのぐらいなのかもしれませんよ.そもそも,社会に出たらそういう接待のような機会はいっぱいあるだろうに,社会に出る前の模擬練習である研究室において,指導教員ごときに対してそういう立ち振る舞いができないようでは,到底本番でうまく振る舞うことなんてできません.それは敬語も同じで,指導教員という便利な存在がいるのに,何故そこで敬語の練習をしないのだろうか?社会人になったら突然にして敬語のスキルが身につくとでも思っているのだろうか?不思議でならない.

200911071116追記:
こちらも共感をいただけたようで,うれしいです.久しぶりにブログを書くと,反応があってうれしい♪

おごられ上手、もらい上手、叱られ上手の人間というのはとってもあこがれる。どれも相手は自分に対して良いことをしようとしてくれているわけなので、その「自分に良いことをしてくれた」という事実にまず素直に喜んで、それを相手に素直に示せるようになりたい。

おごられ上手、もらい上手、叱られ上手になりたい - 発声練習

id:next49さんとは非常に感覚が近いようで,うれしいです.シガールの件もあるし.○○上手というのは世渡りをしていく上で,とても大事なスキルで,得することはあっても損をすることは少ない,とても便利なスキルのように思います.

@juncriさん!、主賓なのでxxxx円多く払ってください!僕らはタダです!と元気よくお願いされたことを思い出した。鼻水出そうになった。…主賓? RT @k4403: おごるはなし・おごられるはなし (http://bit.ly/DbrxD)

Twitter / 雀区: @juncriさん!、主賓なのでxxxx円多く払って ...

これは泣けるorz.「主賓なので」という論理展開が微塵も理解できないわけですが・・・.申し訳なさそうに会計を持ってきてくれたら「ふむ.ではこのくらいはだそう」みたいな展開になると思うのですが・・・.なんでこういう人たちって,お金を出す側にお金を出させようっていう気にさせるように仕向けないんだろう.社交辞令的でも「ええ!そんなにいただいていいんですか??僕らも出しますよ?」くらいは言ったらいいと思うのに.言うのと言わないのでは心証が全然違うと思うのだが・・・.ほんの一言でみんなが幸せになるなら言えばいいのに!「ありがとうございます」や「ごめんなさい」やそもそも挨拶ができない現代っ子特有の状況なのでしょうか.

指導教官というほどの立場でもなかったのに、これは何度も経験ある。しかも態度だけならまだしも露骨に口に出すやからもいた。そのときはさすがにいやに なったので、飲みに行くのを止めた。あと、「学生だけで話をしだす」、「英語をろくに話せないので、英語しか話せない留学生をこちらに回して自分らは好き 勝手に飲む」などもあった。何度も経験するとうんざりする。

kanzanjittoku-diary

これもありすぎます.現所属は留学生が全然いませんが,前所属では博士課程3人のうち,自分以外は留学生だったので,自ずと英語を話さざるを得ないわけですが,留学生ゾーン学部生ゾーンみたいにバチッと境界ができるかのような席取りとか,もう!ですよ.ましてや,留学生のお祝いなのにですよ!君たちは帰ってよろしい!って言いたいです.何のためのその会が開かれていて,自分がどういう役割なのかをクールに理解して欲しいです.ただの飲み会ならいざ知らず,お祝いの席に参加しているのなら,そういう態度で参加して欲しいです.飲み会って,ただ呑むだけじゃなくて,何か目的があって呑むことの方が多いでしょ?

研究指導なんかもそうですけど,大学で研究指導する側の人って,大体「できる人」だと思うんですよ。今までできてきたからこそ指導する側に回れている。そういう人ってね,できない人の気持ちは分かるんだろうかと思うわけです。というか,できない人の気持ちが分からないからそういう指導になるんだろうなーとか正直思ってます。

「できない」人の指導が受けたい - 諏訪耕平の研究メモ

すごくよく分かる.頭がいい人の話って,論理が飛躍するというか,途中まではふむふむって思わされるんだけど,ある瞬間からずだーんってすっ飛ぶんですよね.その間を埋める理屈が分からないので,基礎とその応用しか分からず,応用的な発展ができないことがある.正に学部1年の時に受講した基礎電気回路がそれに相当していた.授業はテキスト通りに進むので,ふむふむと思いながら進んでいくのが,いざ演習になるとちんぷんかんぷんで,本当に授業でやった範囲なのか?という疑念を拭えなかった.解説では,「これはこれの応用で,これこれ適用します」とか説明するんだけど,全くチンプンカンプン.面白いほどに分からない.オレ,その時,大学の授業の恐ろしさを体感し,気を引き締めて授業を受けるようになりました.まぁ,回路の成績は振るわなかったわけですが・・・.

これは研究でも教育でも何でもかんでもそうだと思います.身の丈にあったものが1番ちょうど良いんです.誰かに何か指導をする時,自分を指導する相手に置き換えて,どうしたら良いかを考えます.しかしながら,何をどうしたって,自分は自分であって,他人とは絶対に違うものなので,そこは想像するしかないです.あくまで,限りなくそれっぽく想像することしかできません.その想像に関していえば,自分と同じレベルは想像しやすいです.もしくは,同じ境遇や過去に遭遇した問題は想像しやすいです.既に経験していることですから.そういう点から考えれば,「わからない」や「できない」や「しらない」といった経験していることは,想像する上での助力になると思う.だって,それを乗り越えてきているのだから,少なくとも同じ手法を当てはめてみるのは1つの手段だと思う.

この話は教育×破壊的イノベーションにも似たストーリーがある.

われわれの友人の一人は,仮にダンという名にしておくが,アメリカ西部の短期大学で会計学を学んだ.(中略)最初の学期の成績評価点(GPA)は四点満点中の一・五だった.(中略)「故郷に帰って家を継がれた方が良いと思いますよ」とアドバイザーは勧めた.(中略)「今に見ていて下さい」とかれはアドバイザーに反論した.「これから成績を上げて,必ず卒業して見せますから!」(中略)並々ならぬ努力の甲斐あって,ダンは修士号を取得した.(中略)ダンの卒業した短大の会計学の講師が突然病に倒れた.(中略)「うちで教えてくれるかもしれないぞ.」(中略)ダンはこう語っている.会計学を教えるようになって「突然わかったんだ!学生時代は何年も苦しみながら,根性と精神力だけで,ありとあらゆる法則を丸暗記していた.でもなぜそういう仕組みになっているのか,わかったためしがなかった.だが自分で授業の準備をして,教えなければならなくなったとたん,腑に落ちたんだよ!」

教育×破壊的イノベーション pp.140-141

ちょっと長いので端折ったら,意味が分からない文に・・・.要約すると,ダンは成績が振るわなくて,アドバイザーに「学校辞めた方がよくね?」風なことをいわれたんだけど,ぶち切れて「今に見てろよ!こんちくしょう!」モードに突入して,頑張って頑張って,修士まで出たんです.そしたら,同時期に会計学の講師が倒れられたので,教授陣が「ダン呼んじゃう?」みたいなノリで呼んだら,ダン大活躍ダンコーガイ!っていうストーリーです.よくわからないですね.原書を当たってください

思うには,大学における教育としては,「できる」人による教育も必要だし,「できない」人による理解と共感も必要であると思う.だから,大学教員が「できる」人だけで構成されていてはダメだと思う.学生が何故「できないか」を理解する人が必要だと思う.「なんでできないんだ?○○を××にするだけじゃないか」なんて,全く以て,チンプンカンプンです.微塵も理解できません.そして,思考停止に陥ります.どっちかっていうと,不信感と絶望だろうか.

教育においてできない人間の気持ちが分かることの重要性はかなり指摘されて久しいと思うのですが,残念ながら大学という場所において教育する側に立っている人々のほとんどは「できない」という経験が不足しているとは思いますね。

「できない」人の指導が受けたい - 諏訪耕平の研究メモ

だから一般的な認識で「できない」オレがここにいる意味はそこにだけあると思っている.それは研究の世界でも同じである.「できる」人達の集団では,「できない」人が置いてけぼりにされてしまう可能性があるので,「できない」人によって「できない」人が理解できるギリギリを残しておけるようにしないといけないんじゃないかと思う.「できる」人は「できない」経験をしていないのであれば,「できない」ということを想像するしかないが,実際に「できない」オレは想像するまでもなく体感できる.「できない」とか「わからない」という経験は,教育において素晴らしい体験の1つだと思う.

まとめ:
大学教員だって,学生と大して変わらない同じ人間です.何でもかんでも知ってるわけではなく,知らないことも,できないことも,色々あります.人間だもの.ただ,何が違うかって,その「できない」フェーズを何かしらの方法で乗り越えてきているということです.そこから学び取れるものって,学校では習わないことなんじゃないかなって思う.できなくてもいいじゃない.できるようになれば.

関連:
「できない」人の指導が受けたい - 諏訪耕平の研究メモ
「できない自分」を忘れないために初心者であり続ける - 発声練習

先日ですね,人志松本のゆるせない話4っていう番組があったんです.

その中に「不良の評価」っていうのがありまして・・・.

学生時代に散々悪さをしてきたのに,働き始めた途端に「あの子はえらくなった」と評価されるのが許せない

ていう話でした.すげーよくわかるわけです.オレも常々思うのですが,電車の優先席とか,優先席じゃなくても座席.優先席に座っていた人が席を譲ると感謝されるのに,優先席に座らずに空けておいた人は全く感謝されないってのはおかしいだろ.席を譲る譲る詐欺みたいなもので,偽善だろう.本当に紳士なら,優先席には座らずに立っていれば良かろうに.いやね.別に,いつも座らないオレに感謝しろという話ではなく,優先席に座っておいて席を譲るなんて偽善的だから,優先席は止めて,専用席にしてしまえばいいのに!っていう話.でも,専用席にしてしまうと,隔離されている感が出てきて,ものすごい反発があるんだろうなぁ・・・.善意って面倒くさい.

だから,要するに何を言いたいのかっていうと,当たり前を当たり前にする人が当たり前に評価されなくなっている現在の社会は偽善に満ちあふれていると思うのです.本当の善意はそんな目に見える形では存在していないのですよ,と.皆さんは周りの人の善意に気がついていますか?

ハチロク世代とか,1981sとか,羨ましいッス.1980年生まれチームはどうなってるんですか?何かやりませんか?何かやりましょうよ.

と,ブログの中心でつぶやいてみるテスト.

博士卒からダイレクトに大学教員になったわけだが,多くの人にこういわれる.「1度は企業を経験しておいた方がいい」って.オレもそう思う.そう思うが,それは可能だろうか.

博士卒がみんなみんな一旦企業に入って,それから大学教員になったとしよう.20代後半から30代前半の若手教員は大学からいなくなってしまうではないか.大学は社会も知らない若手の力は必要としていない?そんなことはない.空白の世代が恐ろしいことは,団塊世代の一斉退職でもう分かったであろう.

じゃぁ,博士卒で大学教員になって,それから企業に行くのか.雇ってくれますか?どうやって雇われますか?博士卒ですら「扱いにくい」とか「プライドが高い」とか「コミュニケーション能力が」とか言われているのに,博士卒+大学教員なんて,さらにひどい評価を受けそうだ.企業からは「使い物にならない」レッテルをベタベタと貼られることは間違いなくて,どうやって雇われるだろうか.仮に雇われたとしても,それは研究所や研究職で,それって,たぶん,みんながいう「企業を経験してこい」ってのとは違いますよね?ただ企業にいけばいいわけじゃないですよね?

まとめ:
「企業を経験しておいた方が良い」という一般論は理解するが,それが全てだとは思わない.可能性を開くという信条からは同意できるが,社会はそれを許容するのだろうか.博士がワーキングプアとは上手く言ったものだ.社会的に成熟するべき時期に腐っていたといっても過言ではない.なんと言っても,入院生活5年ですから.

って,10月のオレが書いたようです.これも未公開お蔵入りエントリのサルベージです.特に問題がないんで,誤字脱字を修正して,そのまま公開.

第1回SBM研究会が情報処理学会誌12月号に特集として組まれている。研究関係の方は是非ご覧頂きたい。会員の方はそろそろ届くはずだ。

Tomo’s HotLine: 第2回SBM研究会の運営サイドとしての感想

今日届きました!電子図書館にもアップされています.

情報処理学会電子図書館-会誌「情報処理」 Vol.49 No.12

これで「SBMってなんぞや」って聞かれても,こういうものですって紹介できますね.

P1000361.JPG

今日はIIJ本社で第2回SBM研究会があったので,参加してきた.目当てははてなのid:naoyaだが,午後はゼミがあるので学校に戻らなくてはならず,午前のみの参加となる.午前にはid:i2kが講演をするということで,期待.

P1000362.JPG

このSBM研究会というのは,学会系研究会ではなく,いわゆるIT系勉強会であると認識している.情報系学会の研究会がどのようにIT系勉強会に負けているのかを知ったかぶりで語るのはどうかと思うので,潜入してみたかったという参加動機がある.もちろん,単純にSBM研究会が扱う範囲に興味もある.さらに言えば,IIJ本社に入ってみたかったという動機もある.色んな意味で,今回はチャンスだった.

まず,学会系研究会では見かけないアプローチとして,mixiやブログに感想を書けと推奨している点を挙げたい.学会ではまず聞かない.sbm2というアカウントを準備し,Twitterでガチャガチャ井戸端.Twitterを推奨するのも,少なくともオレが出入りする研究会では聞いたことがない.CE研究会はMoodleを使っているようだが.まぁ,オレはMSNメッセでカチャカチャすることもあるわけですが.1:1ですけどね.Twitterでもいいんですけど,周りの人達が使っていないようで・・・.実に,オレのTwitterアカは1年振りの眠りから目覚めたくらいだし.単独でTwitterを使い始める強い動機が見当たらないし,誰につぶやけばいいのかもわからないし・・・.使う相手がいるって,重要ですよね.

会場の様子をライブ配信するのも,学会系研究会ではまだまだ多くない.全くないわけではないようだが,出入りする研究会でやったという話は聞かない.個人的には積極的に行うべきだと思う.研究会は年4回くらい行われ,その半分が関東圏で,もう半分が地方という感じだろうか.如何に興味深い発表があったとしても,金曜日だと授業があったり,遠いと旅費が旅費がになったりで,参加できないことは多々ある.だから,足を運ばなくても聴講できるようになるとより良くなるのではないだろうか.研究会は論文誌と違って,プレゼンの機会があるので,そのプレゼンを聞けないというのは残念でならない.しかしながら,学会の場合,無条件に配信してしまうと著作権云々だろうから,研究会員にのみ配信するなどの制限をすればよいだろうか.この手の難しい問題を軽快に解決できるのが,IT系勉強会の良いところだろうか.

さて,聴講した午前2件の発表について,感想を述べていく.個人的なキーワードは「時間」だろうか.

大向一輝「SBMがつくるコミュニティ SBMでつくるコミュニティ」

P1000372.JPG

「SBMは敗北の歴史」という言葉が印象的.長期的な関心,短期的な関心という時間軸に着目した分類と調査は参考になる.というか,正に今やっている.分析対象がSBMではないので,同じような結果にはならないと思うけど・・・.研究面の話は特に「これは!」っていう話はなかったけど,良くまとめられていて,分かりやすかった.

開発面の話は面白かった.4dkは知らなかっただけに,「使ってみなくては」と思った.[FYI]なメールを出しまくる傾向にあるオレとしては,この4dkがピッタリですね.研究室や研究グループで使ってみたい.4dkを活発に利用できるということは,活発に研究が行われていると見れるだろうか.

上野大樹「ソーシャルブックマークデータの時間情報を用いた情報フィルタリングと検索」

P1000378.JPG

ブクマ数と有益かどうかは別問題という点は同意.質疑で出ていたような気がするけど,タグの意味を活用するのは良いと思うけど,タグの意味って統一的なものがなくて,人によって解釈が異なるから,上手くいくタグと上手くいかないタグがあるだろう.「これはひどい」なんて,結構ブレがあると思う.

セレクトブクマも知らなかった.知らなかっただらけで,本当にSBMをやってるのか疑わしいな,オレ.アンケート数が卒研っぽくて,素敵.意味を成していない.折角だから,アンケートを実施したら良かったのに.ってTwitterにつぶやいたのに,反映されなくてしょんぼり.ブクマストリームは使ってみたい.早くサービスインしないかなぁ・・・.

まとめ:
間が空いてしまった上に,濃い感想を書くわけでもなく,なんとも中途半端な感想です.惜しむらくは,午後の聴講ができなかったこと.ゼミを休めば良かっただろうか.次回も可能であれば参加したいと思います.

はてブでコメント頂きました.

このSBM研究会というのは,学会系研究会ではなく,いわゆるIT系勉強会であると認識している → IT系勉強会というのとも微妙に違う気がする。ネタに走ったプレゼンがほとんどない

はてなブックマーク - [SBM研究会]第2回SBM研究会 - 4403 is written

確かに,IT系勉強会とは違う気がする.でも,学会系研究会ではない.どちらかに分類するとすれば,迷わずIT系勉強会に分類したい.というか,ネタプレゼンがあるのがIT系勉強会っていう分類はマズイと思う.もしそれが真実だとすると,情報系学会の研究会はIT系勉強会に負けていない.ただ単に,ネタを聞きたいから集まっているに過ぎないという推測ができてしまう.実態はそうではないだろうと思うのだが・・・.

あぁ.そっちの話も.結局,情報系学会の研究会はIT系勉強会に負けているかどうか.負けてはいないと思うが,押されているのは間違いない.情報系という分野はかなり広いので,一部はIT系勉強会に完全に喰われていると思う.Web系なんて,特にそうではないだろうか.完全オンラインのWeb系研究会が出てきたとき,学会系研究会はその流れに付いていけるだろうか.毎日が研究会状態になったとき,学会系研究会は最先端を歩むことができるだろうか.

P1000363.JPG

晒されるオレ.

関連:
はてなブックマーク - タグ - sbm研究会
Tomo’s HotLine: 第2回SBM研究会のスケジュールFIX
Twitter / sbm2
第2回SBM研究会プレゼン資料
SBMがつくるコミュニティ SBMでつくるコミュニティ 第2回SBM研究会ログ - ソーシャルメディアマーケティング(SMM).jp
ソーシャルブックマークデータの時間情報を用いた情報フィルタリングと検索 第2回SBM研究会ログ - ソーシャルメディアマーケティング(SMM).jp

People to People Communications(川崎市)は11月25日、統計データを元に作成した「疑似個人情報」の無償提供を始めた。非営利目的に限り、1人3000件まで無料でダウンロードできる。

架空の名前や住所、生年月日などで構成した個人情報リストを提供する。自治体などが公開している統計データの分布を正確に反映させており、実在の情報ではないものの「本物と区別することができないほど」そっくりだとしている。

本物そっくり「疑似個人情報」を無償提供 - ITmedia News

なるほどなるほど.これは便利そうだ.というか,面白そうだし,個人情報を扱う実験用のデータとして役立ちそうだ.疑似個人情報に含まれる項目一覧によると,姓名,生年月日,年齢,性別,既婚,住所などが使えるようだ.個人的には職業とか役職とか,属性情報が欲しいなぁって(ぇ.やっぱり統計データを基に付与するしかないのかなぁ・・・.

名簿処理などのテストデータに使う擬似個人情報は、
なんちゃって個人情報 [kazina.com] をよく使っていました。

本物そっくりの「疑似個人情報」、無償ダウンロード開始

なんちゃって個人情報の場合,携帯のキャリアとカレーの食べ方が出力されるので,属性的には面白かなって.カレーの食べ方が実用上,どのように役立つのか知りませんが.カレーの食べ方で,せき止め派,ルー攻め派,別口派ってどんな食べ方なんですかね?理解できません><.探したいんですが,ググっても,この疑似個人情報がヒットしまくって,見つかりません><.誰か!説明を要求する!

□第2回SBM研究会概要

☆日時:2008年12月6日(土) 開場9:30、講演時間 10:00~17:30(予定)
☆場所:株式会社インターネットイニシアティブ本社
http://www.iij.ad.jp/info/map/head-office.html
(会議室等、無線LANの利用可否については調整中)
☆定員:190名(講師、スタッフを除く)
☆参加費:無料

Tomo’s HotLine: 第2回SBM研究会講師陣+参加者募集のお知らせ

近すぎワロスw.IIJ本社に潜入してみたかったので,これはチャンスだ.午後からゼミだから,午前中だけ参加しようかしらん.

ネットの書き込みで心に傷を負う人も多い昨今だが、西村は「わざわざ(ネットの書き込みを見に来て)ショックを受けるのは解せないですね。何を見るのかは 本人が決めること。見たくないものは最初から見なきゃいいじゃんって思うんです」とばっさり。

2ちゃんねるの管理人、西村博之が独占激白!「子どもにインターネットは必要ない!」(シネマトゥデイ) - Yahoo!ニュース

全くですよ.見るも見ないも,信じるも信じないも自分次第で,情報の取捨選択は自分でコントロールできるはず.それを勝手にまじまじと見て,ショックを受けるなんて.偶然目にしたのならともかく,噂を聞きつけて自ら確かめに行ったのなら,それは自分自身の好奇心がさせたことであり,ショックはそれの代償程度だと思う.というか,想定してみればいいのに.

ただ、子どもがインターネットをすることについては放任主義 ではないようで「子どもにインターネットは必要ない。子どもは自分たちを搾取しようとする第三者に対処する術を持っていない」と子どもは守るべき対象であ ることを明言した。

2ちゃんねるの管理人、西村博之が独占激白!「子どもにインターネットは必要ない!」(シネマトゥデイ) - Yahoo!ニュース

エロビデオに18禁があるように,インターネットもある意味では規制されて然るべきかもしれない.でも,エロとインターネットは違うと思う.エロは規制されながらも,色々と漏れ伝わってくるものであり,徐々に学んでいく期間があろう.他方インターネットは規制してしまえば,繋がらないという状況になるであろう.フィルタリングという可能性もあるが,徐々に学べるフィルタリングってなんだろう.情報格差なのか,情報封鎖なのかわからないが,情報を規制したとして,それが突然にして開放された瞬間,どうなるだろうか.免疫がない状態で,インターネットの膨大な情報に飲み込まれないだろうか.「あ.インターネットにはなんでもある.もう勉強しなくていい.考える必要なんてない」なんてことにはならないだろうか.

難しい.

CA391297.JPG

2008年10月8日から10日にかけて,沖縄コンベンションセンターで開催されたCSS2008/MWS2008に発表で参加してきた.会場の沖縄コンベンションセンターはこんな感じ.

CA391321.JPG

FFっぽいです.

開催期間中はどこにも遊びに行くこともなく,真面目に会場に足を運んでいました.聞いた発表の中で,面白いなーとか,ん??て思ったとか,なるほどなるほどって思ったものを列挙.

  • 携帯電話を用いた連携認証手法の提案 -OpenIDとの連携-
  • JavaScript保護技術の提案と実装評価
  • IdPとSPのグレード付けとグレード付けに基づいたサービス提供の枠組み
  • ニューラルネットワークを用いたコンテンツ非破壊型情報ハイディング手法の提案

なんだか全然聞いてない風に見えちゃって困るなぁ・・・.

今回も色々な人とお知り合いになれて,とても有意義でした.呑み会や懇親会で色々な方とお話しできてとても良かったです.特に,naoeの日記のnaoeさんとお会いできました.最終日に飲みの席をご一緒させて頂いて,とても楽しかったです!遅くまでありがとうございました.

DSCN4317.jpg

naoeさん達と記念撮影.撮影時間が27時頃とかいうのは気がつかない方向で.

関連:
CSS2008に行ってきた! - naoeの日記
CSS×2.0 in CSS2008 - 4403 is written
CSS×2.0デビューしました - 4403 is written
情報系学会の研究会で「情報系学会の研究会が危ない」理由を聞いてきた - 4403 is written
pocketerを使ってみた - 4403 is written
CSS2008~観光編 - 4403 is written
トロピカルビーチで泳いできた - 4403 is written
ポケモンジェット - 4403 is written
難聴になってわかったこと - 4403 is written

オープンアクセスは今後も学会、研究者、図書館等、学術情報流通に携わる人々にとっては大きな課題となることは確かなことでしょう。(中略)オープンアクセスそのものの意味も、それを語る人の立場によって異なることも指摘されています。また、我々は、日本におけるオープンアクセスとは何か?をそろそろ検討すべき時期でもあるように考えます。

SPARC Japanでは初のOpen Access Dayである10月14日に、セミナーを開催し、多くの方々とオープンアクセスに関する検討を行いたいと思います。

国際学術情報流通基盤整備事業 │ イベント情報 │ SPARC Japanセミナー【Open Access Day特別セミナー】「日本における最適なオ-プンアクセスとは何か?」

ぎゃー!サンじゃないSPARCがNIIで面白そうなことをやっていた件.参加費無料だし,近いんだから,ちょっと時間を作れば行けましたよ.いや,やってること自体を知らなかったから,どれだけ暇だったとしても行けなかったけど.

一応,GoogleカレンダーのIT勉強会は見てるんだけど,情報量が多すぎるから,普段は非表示にしてるんだよねぇ・・・.しかも,このイベントもしっかり載ってたし.情報の海から本当に必要な情報を見つけ出すって,やっぱり難しい!こういう時はプッシュサービスが嬉しいよなぁ・・・.プッシュされすぎるとうざいけど.難しい!

関連:
SPARC Japan セミナー2008 「日本における最適なオープンアクセスとは何か?」参加記 - 発声練習
情報系学会の研究会はもはや勉強会に負けている可能性が高い - jj1bdx: life beyond Japan
情報系学会の研究会で「情報系学会の研究会が危ない」理由を話してきた - jj1bdx: life beyond Japan
研究者はもっとオープンになるべきではないか - 4403 is written
情報系学会の研究会で「情報系学会の研究会が危ない」理由を聞いてきた - 4403 is written

タイトル通りなのだが,「情報系学会の研究会が危ない」理由を聞いてきた.実はワタクシもCSS×2.0で喋らせて頂く予定だったのですが,当日午後に実行委員の方から「ネタがかぶってるかもしれないよ」と報せて頂いて,内容の概略を聞いたところ,ちょっとハッとしましたが,そちらは真面目な内容で,こっちはそこをトリガにしたネタ発表だったので,安心安心.でも,まさかそんな発表があるなんて・・・.偶然も偶然で,世界は狭いものだと再認識しました.

とりあえずできることとして

  • 研究会の感想や意見はブログに書く
  • 研究会参加者はいろいろな勉強会に乗り込んで行って話をしてくる(他流試合が大事)
  • 研究会ならではの面白さを他の人たちにも伝える
  • 発表した研究成果は公開しよう

という,まあ至極当たり前のことを,言ってきた.

情報系学会の研究会で「情報系学会の研究会が危ない」理由を話してきた - jj1bdx: life beyond Japan

意見を述べるのは難しいかもしれないけど,感想は書かれたい.楽しかったとか,面白かったとか,あの発表は興味深いとか,インジェクション!インジェクション!とか,警備員さんが大活躍だったとか,料理長ありがとうとか,海が綺麗だったとか,スコールがひどすぎとか,4403のネタは振り方が悪いとか.参加者は参加していない人に学会の出来事や内容を伝える役目をして欲しい.それは人気アーティストのライブに参加できなかったファンが,参加者のライブレポートを食い入るように見ることと同じだと思う.違うだろか?いや,違わない(反語).

オレも他流試合というか,異分野に突入することは大切だと思っていて,異分野コラボレーションだ!と書いたのはそういう意味もあるのだ.異なる分野の知識を得ることで,脳みそがグリングリン回り始めるかもしれないし,自分が本当にやりたいものが見つかるかもしれないし,ものすごい有名人と知り合える機会になるかもしれない.それは全部,可能性の問題ではあるのだが,可能性は常に開く方向でお願いします.オレもIS研究会GN研究会FI研究会SWO研究会を聴講しに行くし,全国大会FITのような総合大会にも足繁く通う.自分の可能性は常に開いておく方向で.DICOMOも参加してみたいなぁ・・・.

追記: 「他流試合ではなく交流が大事なのでは」というコメントがあった.基本的に私は技術的な発表と質疑応答というのは,すべてディベートであり,勝負だと思っている.その意味で,他流試合,というのは,相手の流儀であえて戦うことであり,交流ができるのは一戦交えた後だろうと思う.

情報系学会の研究会で「情報系学会の研究会が危ない」理由を話してきた - jj1bdx: life beyond Japan

オレも大事なのは交流だとは思うが,確かに一戦交えることがありきだと思う.一戦交えない交流はただの親睦であって,遊びに来ているのではないのだから,戦ってから死ねばいいのに.昨日の敵は今日の友.おかげさまで,最終日は閉会後から27時までどっぷりと交流ができました.こういう時間は何事にも変えがたい.

関連:
情報系学会の研究会はもはや勉強会に負けている可能性が高い - jj1bdx: life beyond Japan
研究者はもっとオープンになるべきではないか - 4403 is written

プロフィール

e-m@il @ddress