10月19日から21日まで岡山のママカリフォーラムで開催されるCSS2010の初日夜にはキャンドルスターセッション(CSS×2.0)が行われます.今年も発表予定です.会場に来られない方も大勢いらっしゃることかと思いますので,発表資料を公開したいと思います.そもそも発表時間がシビアらしく,バンバン飛ばしていくので,会場に来る人は予習して笑うポイントを見つけておくように!
なお,この発表資料は発表予定のものであり,発表直前まで修正が繰り返される可能性が高い(takesakoメソッド)です.
10月19日から21日まで岡山のママカリフォーラムで開催されるCSS2010の初日夜にはキャンドルスターセッション(CSS×2.0)が行われます.今年も発表予定です.会場に来られない方も大勢いらっしゃることかと思いますので,発表資料を公開したいと思います.そもそも発表時間がシビアらしく,バンバン飛ばしていくので,会場に来る人は予習して笑うポイントを見つけておくように!
なお,この発表資料は発表予定のものであり,発表直前まで修正が繰り返される可能性が高い(takesakoメソッド)です.
最早10日以上前に「ブログに書く」といって以来,音沙汰なしになっていたけど,いい加減,書かないといつまでも積んでしまいそうなのなので,ケツカッチンの今こそ書いてみる.
「研究室に入って、俺自身はちょっとは成長したけど、このままだとほとんど成果なしで去るんじゃないか?いいのか?」と思ってたけど、逆に考えて「研究室に成果は溜まるけど学生は成長しない研究室とか最悪だな」と思うと、ちょっと楽になった。
これはすごく大事なことだと思う.研究室に所属する頃になると,社会に出て行く直前となる頃合いだと思う.大学は教育研究機関であることを思い出してみると,研究室の役割は研究を行うことだけではなく,学生たちを社会に出て恥ずかしくないような人材に育てることも然りであると思う.
研究室での指導方針というのはいろいろとあるだろう.手取り足取り,道を与えて,その道を踏み外すことなく歩ませることで成功体験を与えるやり方.大人なんだからという前提から自発的な活動に任せて,自由な研究環境を与えるやり方.他いろいろ.
このつぶやきで提起されているのは,各個人と研究室のつながり方である.研究室は長いこと脈々と続いていくものである.研究室に所属する卒研生や院生はその一部分に過ぎない.ここで研究室の視点から考えると,長期的な視点で考えられている研究の部分部分をその時々に在籍していた学生に割り振り,研究を進めていくことになる.それはそれだと思う.短期的に終わらない研究なんて山ほどあるわけで,複数代で継続して行われる研究は多くあると思う.これを学生の視点で見ると,研究室の業績を蓄えるために成果は出したが,自分自身は何かを得たのだろうかと感じてしまうのかもしれない.
つぶやきに書かれているように,研究室で自分自身は成長したと実感することは大事だと思う.そこで大した成果を研究室に残せなかったとしても,自分自身が成長していることこそが重要だと思う.その上で,自分の成長の証として,研究成果なりなんなりを研究室に残していってくれれば,指導教員冥利に尽きるというものであろう.研究は進んだけど,特に成長しませんでした(実感できませんでした)というのは,何を指導したのかと考えてしまう.
オレは,社会人たるに相応しいマナーや常識,経験を十分に積むべき期間が研究室在籍の期間だと思っている.もちろん,それは研究をしなくていいという話ではない.研究も大事だが,そのような役割も研究室は担っていると思っている.
これもあれもそれも,結局のところ「愛○○心」という話になるわけだが,「愛研究室心」と言えばいいだろうか.教員と学生がお互いのできる最善を尽くし合うことによって構築される信頼感と安心感が,優れた人材育成と安定した研究成果をもたらすのではないかと思っている.そういう研究室運営をしたいなぁと思った次第です.
このエントリーは6月頃に書こうと思い立って,今に至っています.最早,何が何やらになっています.過去のエントリに書かれている内容をベースに書き進めたいと思います.
私は思うのです.私学教育で最も重要なのは,愛校心を育てることであろうと.
同窓会の会費やら,寄付のお願いみたいなのがやってきますが,特に,寄付のお願いというのは,愛校心がなければ難しい.ましてや,オレの場合,母校と現在の勤務先は異なっているので,勤務先から寄付のお願いが来ても,今のところ,寄付をするつもりはない.だって,見返りがないし,愛校心もないし.それはそれは,オレ如きを雇って下さっているという意味では,寄付して然るべきだが,労使関係からすれば,寄付しないことも不自然ではない.そこに掛かってくるのは,愛校心であろう.「我が母校が危機だ.幾ばくかでも助力しなくては!」「母校で学ぶ学生のための投資」どれもこれもが愛校心の成せる業であると思う.
愛校心は素晴らしい力を持っていると思う.愛校心は私学建学の精神と通じるところがあると思う.その思想の元に,人が集うし,真剣に問題に取り組むし,少しでも良くしようと努力するし,何と言っても,過去を尊び今を未来へと繋げようとする.それは継続の力だし,改革では成し得ない保守だけが持つ壮大な力だと思う.
私学は国公立とは意味合いが大きく異なる.国公立大学では職人芸的にプロフェッショナルを育成する目的を第1に掲げても良いと思うが,私学はその性格上,全ての大学がそのような目標を立てることは難しい.しかしながら,全ての私学に共通し,達成しなくてはならない目標が「愛校心を育てること」だと思う.
だから,某大学のように現代文明論という思想科目を必修科目にしているのは至極正しいことだと思う.まぁ,今はただ単純に過去の流れを引き継いでやっているだけなのかもしれませんが.目的を理解して思想教育をしているとは思えない節がありすぎて,心配で心配なりません.出身学科はあっという間に消滅しましたが,母校自体が無くなるのはいやなので.どげんかせんといかんと思う.
まとめ:
私学は勉強を教えているだけでは学校経営ができない.そこには卒業生や父母の理解が必要であり,それは愛校心の成せる業であると思う.私学ならば,その建学の精神を以て,愛校心を育てることに注力しても良いのではないだろうか.
えーと,シリーズ化を予告してから早2ヶ月.誰もが忘れた頃に,それは再びやってくる.建学の精神を紹介していく予定のこのシリーズ.今日は建学の精神を聖書の一節から選んでいる大学を紹介しようと思います.
まずは手始めに,女子大からいってみましょう.フェリス女学院大学の建学の精神です.
めいめい自分のことだけでなく
他人のことにも注意を払いなさい
新約聖書 フィリピの信徒への手紙 2 : 4
フェリスはピリピ書の一節を建学の精神としています.また,この言葉を以下のように説明しています.
愛と配慮を、単に自分や自分の家族・友人、或いは自国だけに向けるのではなく、見知らぬ他者、異なった文化と歴史をもっている地球の裏側にいるような民族と国家にも向けなければならないことを教えています。「他者のために」の一句こそ、すべての人間が平和的存続のために自らの基本精神とすべきモットーです。
ピリピ書は東京女子大学でも使われています.
本学は、「すべて真実なこと」(新約聖書フィリピの信徒への手紙第4章8節)を標語とし、また犠牲と奉仕の精神をあらわす二つのSを組み合わせて校章として、キリスト教を基盤とした人格教育を行っています。初代学長新渡戸稲造は、第1回卒業式に寄せたメッセージの中で「基督教の精神に基いて個性を重んじ世の所謂最小者(いとちいさきもの)をも神の子と見做して、知識よりも見識、学問よりも人格を尊び人材よりは人物の養成を主としたのであります」と本学の理念を端的に述べています。
ピリピ書は大人気です.それは,そうですよね.ピリピはそういう書簡ですから,格言が多く含まれています.かわって,マタイを引用している明治学院大学を紹介しましょう.
“Do for others what you want them to do for you”「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(新共同訳「マタイによる福音書」7章12節)。
こちらはマタイを引用していますがフェリスと同じく"For Others"を重視しています.これについては以下のように説明されています.
キリスト教による人格教育という建学の精神と、“Do for Others”という教育理念を大切にして社会に貢献していくそれが、明治学院大学です。
キリスト教系の大学は慈愛の重要性を説いているように思います.これは人格形成の根幹かと思います.建学の精神にこのような全人的な目標を掲げるのは,大変に素晴らしいことだと思います.そういえば,前回紹介した東海大学もキリスト教の影響があります.東海大学の建学の精神はコヘレトの言葉をもじったものだそうです.手元に旧約がないんで確認できませんが・・・.12章1節ですかね?
そうやって見てみると,キリスト教を背景に持つ大学の建学の精神はどれも素晴らしいものばかりです.仏教のことはよく分からないのですが(キリスト教もよく知らないけど),同じように優れた建学の精神を持っているのだと思います.私学教育においては,宗教的思想が背景にある方が,上手くいくのでしょうか?
さて,今回紹介した大学はキリスト教系大学のごく一部ですので,他にもいろいろあると思います.皆さんも今一度,母校の建学の精神を見直すとともに,いろいろな大学の建学の精神を見てみると良いんじゃないかなって,思います.
読売新聞のコラムに大学学長の教育論が掲載されているらしい.
読売新聞は手に入りづらいので,オンラインに出てこないようであれば,何らかの手段を使ってこの記事を手に入れようと思います.スクラップスクラップ.
というわけで,コラム自体は上記の紹介記事から読んで頂きたいと思うのですが,皆さんはどうように感じるでしょうか.私は最後の2段落こそ意味を理解できないが,それ以外に関しては概ね同意できる.大学教員は教育に対して,なんら本気が見られない.学会にでかければ,研究の話ばかり.じゃぁ,教育の会議に出かけていくかといえば,そんなことはない.どこかで教育について語り合ったり,議論するような場すら準備されていない.FDがあるといえばあるが,どれ程に本気だろうか.教育って,そんなに簡単なものなのだろうか?それとも,教授になると突然できるようになるものなのだろうか?研究者として認められると,教育能力も高まるのだろうか?研究歴10年にも満たない私には,想像すらできない.
さて,このコラムの注目すべき点は,静岡産業大学学長が書かれているという点である.教育コラムニストやアナリストが書いているのではなく,現場の長からのコラムである.事件は会議室で起きてるんじゃなくて,現場で起きているんです.是非「教育者として雇って頂けますか?」ってお聞きしたいところです.って調べたら,公募が出ている・・・.これは応募しなくてはならないフラグかしら?
どの私立大学にも建学の精神というものがあると思います.各大学とも,素晴らしい言葉が掲げられていると思います.その素晴らしい言葉を順番に紹介していこうかなと思い立ちましたので,深いい話を述べる引用のために,東海大学の建学の精神を紹介しようと思います.
若き日に 汝の思想を培え
若き日に 汝の体躯を養え
若き日に 汝の智能を磨け
若き日に 汝の希望を星につなげ
これの何が素晴らしいかといえば,その順番であると言えます.まず初めに書かれているのは「智能」ではなく「思想」です.最高学府の大学としての役割を考えるとき,「智能を磨く」ことが最重要に思われる中,「思想を培え」と説いています.まず思想ありきであると言えます.では,どうして思想が1番初めに書かれているのでしょうか.
逓信省時代に松前重義は、新しい通信技術の開発に従事するなかで「人生いかに生きるべきか」について思い悩み、内村鑑三(1861~1930)が主宰する聖書研究会や講演会などに通いました。(中略)
そこにおいて松前は、内村の思想と人類の救済を説く情熱的な訴えに深く感銘しました。また、そのなかで松前は、プロシアとの戦争に敗れ、疲弊した国を教育によって再興させた近代デンマークの歩みを知ります。とくに、その精神的支柱となったN.F.S.グルントヴィ(1783~1872)が提唱する国民高等学校(フォルクホイスコーレ、国民大学とも訳す)の姿を知り、そこに教育の理想の姿を見出します。
「生きた言葉による学校」「民衆のための大学」といわれた国民高等学校の教育は、教師と学生が生活を共にし、自由に社会を論じ、哲学を語り合う活気に満ちた学校でした。(中略)学校とは 「歴史観、人生観、使命感を把握せしめ、以て個々の完成に努力することにある」べきだということでした。(中略)松前は「国づくりの基本は教育にあり、教育を基盤として平和国家日本を築こう」 と決意しました。
(中略)
(中略)1936年に東京・武蔵野に望星学塾を開設したのです。そこでは、デンマークの国民高等学校の教育を範としながら、対話を重視し、ものの見方・考え方を養い、身体を鍛え、人生に情熱と生き甲斐を与える教育をめざすもので、聖書の研究を中心として日本や世界の将来を論じ合う、規模は小さくとも理想は大きく、活気ある学習の場でした。この塾が今日の学校法人東海大学の母体となったのです。
つまり,人生の根底に存在する思想を培うことこそが,教育のあるべき姿であり,それが豊かな人生,ひいては国づくりの基盤となると考えたからであると言えるでしょう.
では,これを私に当てはめるとどうなるでしょうか?まず「思想」です.大学教員は研究職だと一般的に認識される中,教育者としての思想を持って,日々苦悩しています.「体躯」はどうでしょう.最近は天候不順で怠け気味ですが,ジョギングに出かけますし,基本的に歩くのは大好きですし,ネタ発表のために富士山を登っちゃうし,スキー好きだし・・・.それなりに体躯は養われていると思います.「智能」は日々磨いております.磨いていますが,なかなか光りません.酸化が激しいようです.還元剤が必要そうです.「希望を星に」繋げられたでしょうか.教育者として大学教員になるという「希望」は叶っていると思います.認められているかどうかは別問題ですが.
という感じで,この後も私立大学の建学の精神を紹介していきたいと思います.自薦他薦がありましたら,どしどしとどうぞ.
あらかじめ.駄文です.殴り書きです.所詮,ブログなんて便所の落書きです.追い込まれて現実逃避的にブログを書くのは従来のスタイルなので,調子が戻ってきたということでしょうか.
何かがわからない.何かを知りたい.そういうとき,今ならどうするだろうか?ググッたり,ヤフったりするのではないだろうか.つまりは,Web検索を行うだろう.Web検索を行った結果,目的の情報を得ることができた.それは何故だろう?グーグルが優秀だから?検索キーワードの選定が上手いから?全然違いますよね.どこかの誰かがWeb上にその情報を発信したからです.ないものは見つけられません.知ってますか?ないものは見つけられません.大事なことなので2回書きました.
例えば,Windows上でトラブルが起きました.なんかエラーが表示されています.そんな時,どうしますか?とりあえず,Web検索しますよね.オレのオススメはエラーメッセージをそのまま検索クエリに投げることです.結構な確率でドンピシャ情報を得られます.それは何故か?誰かが同じトラブルに遭遇したからです.そして,その情報はどこから発信されたものですか?もちろん,マイクロソフトかもしれません.でも,それ以外の情報もゴロゴロあります.具体例を挙げましょう.このブログでもいまだに月間アクセスでは常に上位をウロウロしているKB888111について.これをググってみて下さい.もちろん,マイクロソフトの情報がトップに出ますが,それ以外に,個人ブログや掲示板等の情報がゴロゴロとでてきます.そして,何故,KB888111で検索して,このブログのアクセスランキングの上位にでてくるのでしょうか?おかしいですよね.トップにオフィシャルの情報がでているんだから,それを見ればいいのに,なんでわざわざ他の情報を見るんですかね?それは簡単で,トラブルに遭遇した人同士の親近感といいますか,同じ目線といいますか.マイクロソフトは定型的事務的に正しく情報を伝えます.でも,わかりやすいかどうかは別問題です.でも,個人ブログは違います.そういう定型的な部分はオフィシャルに丸投げして,「こうやれば直る!」という手順やら手段やらをツラッツラと書きます.これがいいことかどうかはわかりませんが,少なくとも,Web検索をしてくる同様のトラブルに遭遇している人の役には立っているようです.
さて,あなたは情報を得ました.得るだけです.何故,情報を出さないのですか?得るだけ得て,与えない.Give and Takeの精神は皆無ですか?「この前さー.○○が××になっちゃってさー.困っちゃったよ.んで検索してみたら,同じようなトラブルがメーリスやらなんやら結構見つかったんだけど,どれも解決してなくてさー.しょうがないから,いろいろと試したら,できたんだよねー.よかったわー」っていう会話を聞くこともありますよね.何故,その情報をGiveしないのかが理解できない.困っている人がたくさんいることを認識した上で,その情報を提供せずに,自分だけはWebから情報を搾取しようとする.この精神が許せない.有益な情報を1人でも多くの人に伝える努力をしないくせに,自分は有益な情報だけを欲している.それはとても罪深いと思う.
ブログを書かない人の言い訳で比較的よく耳にするのが,こんな言い訳.「オレの書くことなんて,誰も読まないし」.読まれないようなゴミ記事を投稿するのも,有益な情報を投稿するのも自分次第なんだから,それは自分がコントロールすればよろしい.完全に間違っているのは,ブログを丸ごといつでも読んでくれる人をターゲットに書くのと,Web検索をする人に読まれるエントリ(ブログのほんの一部分)を書くことは,違うだろう.玉石混淆の言葉が示すとおり,ブログ上には有益なものから,これみたいな駄文までなんでもあればいいんだ.その中で,Web検索してたどり着かれるような情報は有益なんだ.だから,「新発売の○○ビールを飲んでみた.上手いけどリピはないな」とか,「××に行ってみた.朝方は混んでるけど,昼以降は比較的すいてる」とか,なんでもいいじゃん.自分が知りたいと思っている情報は,誰かが欲していると思ってほぼ間違いない.少なくとも,自分が検索をした結果,有益な情報が得られなかったけど,自分で試したりなんだりで有益な情報を手に入れた場合は,それをWeb上にある情報だと思い込んで検索してしまった自分の責任と未来への寄与のために,情報発信するべきだと思う.だから,自分で試して,書けばいいのに!最近,身をもって試した系のエントリが見かけられるのは,そういう意味を多分に含んでいます.
この考えに賛同できない人は,Webを使うのは辞めた方がいいかもしれない.特に,旅行やグルメなどの口コミは見ない方がいいかもしれない.あなたが情報を発信することが無意味だと考えるなら,他人が発した情報すらも無意味だと思っていた方がいい.Web上の誰とも知らない他人の何を信じて有益な情報だと思い込めるのだろうか.
Web上において,情報の価値は自分では決められなくて,それを見た人が判断する.例えば,「まとめて」って言われたからまとめてみた,IEEE CSの原稿を書くときの話はあれよあれよと,13ブクマになっている.それまでそれを書いていなかったということは,オレはそれを価値のあることだと思っていなかったからで,少なくとも1人は欲している情報だったので,それならばと思って書いてみたところ,少なくとも13人は有益な情報だと判断してくれたのだ.なにが価値があるかなんて,自分じゃわからない.自分にとっては当たり前でも,他に人にとっては喉から手が出るほどに欲している情報かもしれない.だから,玉石混淆でいいじゃない.Web上に膨大に存在する玉石混淆の情報から,必要な情報だけを取り出す技術が,グーグルやヤフーに代表されるWeb検索技術ですよ.自分が必要としている情報以外をフィルタリングしてくれているんです.そして,皆さんが目にしている情報なんて,Webの広さから見たら,ほんの正にほんの一部分に過ぎません.創出される情報量はエクサバイトやらゼッタバイトやらのオーダーです.あなたが自分の価値観だけで物事を判断し,自分にとって価値があることだけを価値があると認めないのであれば,Web上の情報のほとんどは無意味です.
ブログを書かない人で「ブログなんか(へっ!」っていう人は,ブログをなんだと思っているんだろう?「ブログ=日記」で思考停止しているんじゃないかと疑ってしまう.ブログはあくまでWebオーサリングツールにおける一種のスタイルにすぎなくて,ブログという言葉がコンテンツを制限することはない.技術系ブログや書評ブログにグルメレビュブログまで多岐にわたる.それを「ブログ」という単なるバズワードに乗せられて,表層を舐めただけですべてを理解した風に誤解して,その価値に意義を唱えるのは不思議でならない.ほらご覧よ.ここに掲載されているサイトはMovable Typeといういわゆるブログを書くためのツール(CMS)で構築されたWebサイトだ.ましてや,近年ではニュース系のサイトもブログ化していると思う.個人的にはエントリにパーマリンクが与えられていて,RSSが配信されていたら,ブログってカテゴリにしちゃってもいいんじゃないかと思っている.今やオレにとっては,「Web上に情報を公開する手段=ブログ」と化している.2chに書き込むことはほとんどなくなったし,他に書く場所といえば増田くらいだし・・・.増田もオレ定義ではブログだ.
さて,真面目な話すぎて引かれそうなのでうんこうんこ~。これで大丈夫。すべてうんこの話でしたということに。だいたい正解。ちょっとすっきりしたから,腹筋してから寝るかな.マジでこの本はお薦めです.落ち着いて読みたいからという理由でロマンスカーに乗っちゃうくらいに.ちなみに,世界一おいしい餃子は我が家のです.異論は認める,同意はできないが.価値観って,この言葉に集約できますね.うんこの話から綺麗にまとまった.
今日は論破された感があったけど,オレの哲学は負けたと思っていない.オレのプレゼンテーションが劣っていたに過ぎないと思っている.酔っていたからね(いいわけ).
指導教員を超える学生がいたとして,一体何が問題か.全ての学生が指導教員を超える存在であれば問題だが,特異な学生が現れた場合において,何故,指導教員が学生よりも必ずしも上でならなくてはならないのか.自分を上限と見て,育てる学生は自分以下しか育たないなんて,学生に対する制限を求めているので,オレは到底受け入れがたい.同時に,我々大学教員は自分を超えうる最大限の人材を育てる努力を常にしなくてはならず,自分を基準として,指導教員と学生の立場を鑑みて,自分が常に(知識や学術面において)優位に立っている必要性はあるだろうか.ボクにはわからない.自分よりも優れた学生を育て上げることが使命ではないのか?自分よりも劣る学生を育てることが使命なのか?ボクにはわからない.
可能性は常に開いているべきだし,学生の可能性を常に信じるべきだし,学生の上限を我々が決めてしまっては行けないと思っている.
そんな理想を語った今日.理想を語らない人は理想には近づけない.理想を語れないなら,まずは理想を求めるべきだ.と,酔ったオレが言っております.
この文章はフィクションであり,事実に基づいているかどうかはわかりません.明日はSBM研究会で早起きです.
ネットの書き込みで心に傷を負う人も多い昨今だが、西村は「わざわざ(ネットの書き込みを見に来て)ショックを受けるのは解せないですね。何を見るのかは 本人が決めること。見たくないものは最初から見なきゃいいじゃんって思うんです」とばっさり。
2ちゃんねるの管理人、西村博之が独占激白!「子どもにインターネットは必要ない!」(シネマトゥデイ) - Yahoo!ニュース
全くですよ.見るも見ないも,信じるも信じないも自分次第で,情報の取捨選択は自分でコントロールできるはず.それを勝手にまじまじと見て,ショックを受けるなんて.偶然目にしたのならともかく,噂を聞きつけて自ら確かめに行ったのなら,それは自分自身の好奇心がさせたことであり,ショックはそれの代償程度だと思う.というか,想定してみればいいのに.
ただ、子どもがインターネットをすることについては放任主義 ではないようで「子どもにインターネットは必要ない。子どもは自分たちを搾取しようとする第三者に対処する術を持っていない」と子どもは守るべき対象であ ることを明言した。
2ちゃんねるの管理人、西村博之が独占激白!「子どもにインターネットは必要ない!」(シネマトゥデイ) - Yahoo!ニュース
エロビデオに18禁があるように,インターネットもある意味では規制されて然るべきかもしれない.でも,エロとインターネットは違うと思う.エロは規制されながらも,色々と漏れ伝わってくるものであり,徐々に学んでいく期間があろう.他方インターネットは規制してしまえば,繋がらないという状況になるであろう.フィルタリングという可能性もあるが,徐々に学べるフィルタリングってなんだろう.情報格差なのか,情報封鎖なのかわからないが,情報を規制したとして,それが突然にして開放された瞬間,どうなるだろうか.免疫がない状態で,インターネットの膨大な情報に飲み込まれないだろうか.「あ.インターネットにはなんでもある.もう勉強しなくていい.考える必要なんてない」なんてことにはならないだろうか.
難しい.
タイトル通りなのだが,「情報系学会の研究会が危ない」理由を聞いてきた.実はワタクシもCSS×2.0で喋らせて頂く予定だったのですが,当日午後に実行委員の方から「ネタがかぶってるかもしれないよ」と報せて頂いて,内容の概略を聞いたところ,ちょっとハッとしましたが,そちらは真面目な内容で,こっちはそこをトリガにしたネタ発表だったので,安心安心.でも,まさかそんな発表があるなんて・・・.偶然も偶然で,世界は狭いものだと再認識しました.
とりあえずできることとして
- 研究会の感想や意見はブログに書く
- 研究会参加者はいろいろな勉強会に乗り込んで行って話をしてくる(他流試合が大事)
- 研究会ならではの面白さを他の人たちにも伝える
- 発表した研究成果は公開しよう
という,まあ至極当たり前のことを,言ってきた.
情報系学会の研究会で「情報系学会の研究会が危ない」理由を話してきた - jj1bdx: life beyond Japan
意見を述べるのは難しいかもしれないけど,感想は書かれたい.楽しかったとか,面白かったとか,あの発表は興味深いとか,インジェクション!インジェクション!とか,警備員さんが大活躍だったとか,料理長ありがとうとか,海が綺麗だったとか,スコールがひどすぎとか,4403のネタは振り方が悪いとか.参加者は参加していない人に学会の出来事や内容を伝える役目をして欲しい.それは人気アーティストのライブに参加できなかったファンが,参加者のライブレポートを食い入るように見ることと同じだと思う.違うだろか?いや,違わない(反語).
オレも他流試合というか,異分野に突入することは大切だと思っていて,異分野コラボレーションだ!と書いたのはそういう意味もあるのだ.異なる分野の知識を得ることで,脳みそがグリングリン回り始めるかもしれないし,自分が本当にやりたいものが見つかるかもしれないし,ものすごい有名人と知り合える機会になるかもしれない.それは全部,可能性の問題ではあるのだが,可能性は常に開く方向でお願いします.オレもIS研究会やGN研究会やFI研究会やSWO研究会を聴講しに行くし,全国大会やFITのような総合大会にも足繁く通う.自分の可能性は常に開いておく方向で.DICOMOも参加してみたいなぁ・・・.
追記: 「他流試合ではなく交流が大事なのでは」というコメントがあった.基本的に私は技術的な発表と質疑応答というのは,すべてディベートであり,勝負だと思っている.その意味で,他流試合,というのは,相手の流儀であえて戦うことであり,交流ができるのは一戦交えた後だろうと思う.
情報系学会の研究会で「情報系学会の研究会が危ない」理由を話してきた - jj1bdx: life beyond Japan
オレも大事なのは交流だとは思うが,確かに一戦交えることがありきだと思う.一戦交えない交流はただの親睦であって,遊びに来ているのではないのだから,戦ってから死ねばいいのに.昨日の敵は今日の友.おかげさまで,最終日は閉会後から27時までどっぷりと交流ができました.こういう時間は何事にも変えがたい.
関連:
情報系学会の研究会はもはや勉強会に負けている可能性が高い - jj1bdx: life beyond Japan
研究者はもっとオープンになるべきではないか - 4403 is written
学生を指導していても感じますが、書くというスキルは書くという作業を繰り返すことで確実に伸びます。自分はものを書くのが苦手と思っている若い人は、たとえば毎日400字のブログを書き続けるというようなことで、自分を鍛えてみてはどうでしょう。たまに、2000字書くより、毎日400字を1週間続ける方が、「書く」ということに対する抵抗はなくなると思います。
大学院時代はブログを3つやっていて,そのうちの1つは日記形式で,その日の出来事や思ったことなどを何でもかんでも毎日書いていた.ものを書くというのは,それだけですごいエネルギーを必要とする行為で,毎日継続し続ける力はバイタリティだと思っている.少しずつでも毎日書き続けるという努力をすることは,必ず力に結びつくだろう.これは何も文章力に限った話ではなく,多くのことは練習を繰り返すことによって,それなりに上手くなるものです.プレゼンや報告書や論文もそうだ.きっと,英語もそうなんだろう.英語が苦手なオレは努力が足りないのだろう.
非ブロガの人によく聞かれることだが「何でブログなんて書いてるんですか?」ってのがある.辞めるのに理由はあるが,始めるのに特別な理由は無かろうに.なんとなく流行りそうだったから,やり始めたに過ぎない.そんなモチベーションだって良いじゃない.むしろ逆に,「何でブログを書かないんですか?」と聞いてみたい.敢えて聞かないけど.どうせ「面倒くさい」とか「日記を他人に読まれたくない」とか「書くことがない」とか言うんだと思います.別にそれはそれで良いと思います.それが理由なんですから.
でもですね.書き続けることで得られる文章力は,恐らく,非公開の日記と公開されるブログでは違うと思うんです.それは何かと言えば,他人の目を意識するかどうか.「こんなことを書いても平気か」,「この意味は伝わるか」,「こう書いたら面白いか」,「みんなに読んで貰えるだろうか」.そういう意識が無く,ただ単に日々の出来事を書き連ねても,文章力を向上させようという意識がない以上,大した効果は得られないと思う.だから,ブログですよ.不特定多数の人の目に触れる,世界中に開かれたウェブにおけるブログですよ.mixiなんてクローズドな日記はマイミクさん程度しか目にする機会がないので,ダメです.世界に開きましょう.何も,日記を世界に公開して下さいなんて言いません.ブログを書いて,日記も書いたらいいじゃないですか.
そうやって,日記とは違うブログを書き始めると,ブログを書くためのネタを探し始める.新しい視点を獲得し,問題意識というものが芽生えてくる.それ,なんて昔のオレ.ブログに書くことがない1日なんていうのは,無駄に過ごした1日だったと悔いた方がいいかもしれないくらいです.
前々から思っていたことが,色々なところで独立に書かれ始めているので,勢いで書いてみる.
情報公開に積極的でないこと
これも残念ながら事実だろう.各研究者が熱心でないこともあるのかもしれない.
私は自分の研究報告は,学会の著作権規程に反しない限り,少なくとも自分のWebページでは出している.最近はGoogle Scholarのような検索サイトもあるし,学会に参加していなくても論文は読めるようになってきた.USENIXのように,査読つき論文でも全部会員資格なしで読めるように公開するようにしたところもある.
各研究会の感想については,Webでもそれなりに感想は出ているように思う.ただ,参加者の多くに,情報を共有する習慣がないのと,研究会で研究報告を出したらそれ以上の議論が出てこないという,現実的な問題はある.
確かに,学会というのは閉鎖的なのかも知れない.修士の頃は,研究会なんて仲間内の集会のような雰囲気すら感じた.そんなところに初めて行こうものなら,オレテラ空気になってしまう.でも,その中に入れた時は,とても楽しい.だから,もっと学会は開かれていたらいいと思う.
研究報告をしたら,それで終わり的な感覚も多少感じる.オレはどちらかと言えば,研究ができないおちこぼれ君なので,研究報告をするというよりも,こんなことやってるんですけど皆さんと議論したいですって感じ.でも,そういう場って,呑み会くらいしかないんです.だから,懇親会に参加するし,雑談するする.研究会って,本当にすごい人達から,駆け出しの修士まで,色んな人がいるわけで,いわゆるIT系勉強会のような勉強会があってもいいんじゃないのかなとは思う.その場が,ブログだっていいんじゃないのかなと思う.
最近の論文を学術雑誌や学術会議に投稿している職業研究者の多くは、自分のWebページを持っている。昔は当然ながら自分のWebページなどは持っていない。最近でも、昔ながらの研究者の方々は案外Webページを持っていないと思われる。なにせ、2006年にこれからホームページをつくる研究者のために―ウェブから学術情報を発信する実践ガイド (ACADEMIC RESOURCE GUIDE) という本がでているくらいなので(この本の悪口を言っているわけではなく、この本を出版しなければならないという動機が生じる現状から)。
この話も共感できる.研究者の使命として,研究成果で社会に貢献することが挙げられるとするならば,研究者はもっとオープンになるべきではないか.研究成果を特許や論文という形にすることはとても重要なことだと思うが,駆け出しの研究者や,そもそもその分野の研究者ではないが興味を持っている一般の人に,広く自分の研究成果を公開してもいいのではないだろうか.情報を積極的に発信することで,今では多くの人がその情報に触れることができ,もしかすると,その刺激によって,脳味噌がグルグル回り始めて,次世代の尖端研究者が生まれるかもしれない.それは可能性の問題.可能性は開く方向で.
メタボはさておき、実は自分が何を知っていて、何を知らなかったのかというのは、その「知」に触れてみないとわからないのではないか。
ここに書いてあることは、あなたがもう百万回も目にしたことかもしれない。他でもっとわかりやすく洗練された形で紹介されていることかも知れない。いや、多分そうだろう。
しかし、私は知らなかった。知らなかったことさえ知らなかった。
そしてそれを知ることで、私の中の何かが変わった。
そういうことを、書いていけばいい。
全く以て,人間原理.
宇宙があるべき姿をしているのは,人間が観測することによって初めてそうであることを知ったからだ.
涼宮ハルヒの憂鬱 p.230
ある情報がそこにあることを知ることによって,ある情報が存在することを初めて知るのである.だって,ムペンバ効果が出てこなかったら,雪氷学会を知るよしもなかったわけだし.研究者は多くの人々に対して,先端研究に触れられる機会を準備するべきではないのだろうか.オープンに議論するべきではないのだろうか.研究会に参加する様な常連研究者には当たり前の知識であっても,駆け出し研究者や興味を持っている非研究者は知らないかもしれない.それを「勉強不足」で片付けることは簡単だが,そうやって閾値を挙げて,門戸を閉めてはいないだろうか.メタ研究というか,メタ学習というか,そういった類のものはどんどん開かれたらいい.
理系離れが嘆かれる昨今.理系研究者が理系の素晴らしさをどんどんオープンにしていったらいいと思う.学習の高速道路を準備したらいいと思うし,そうなればいいと思う.残念なことに,オレはダメな研究者の代表格なので,先端を紹介するなんてことはできないのだが,入口部分の門戸を開くことはできるかなと思っている.1人1人ができることをやればいいと思う.みんながベストを尽くす世界って,テラ桃源郷.
200809302014追記:
CEATECに行っていたので,確認できていないが,初ホッテントリしたっぽい.アクセス数がすごいことになってるw.
第73回(2008年8月31日放送)のシンボルずで地獄教育をやっていた.リンク先はバックナンバーが置かれるであろうURLで9月8日以降になると見えると思います.
みうらさん曰く、昔は「地獄」について色々教育されてたけど最近はされてないから悲惨な事件が起きているのでは。そこで今回は現世にもある色々な「地獄」を紹介してみんなが犯罪に走らないように教育することに。
熱い!熱いよ!それは熱いよ!確かに,地獄教育らしきことはされてきた記憶がある.善人は天国に,悪人は地獄に.悪いことをすると地獄に堕ちて閻魔様に下を抜かれるだとか,針の山を登らされるとか,うんこ風呂に入らされるとか・・・.恐ろしいです.だから悪いことをしない.こういうのを恐怖による支配と呼ぶんですよね.キラの世界ですね.わかります.
でも,それは地獄に堕ちたくないから悪いことをしないという思考であって,天国に行きたいから良いことをするという思考ではない.それが地獄教育の限界.地獄教育によって畏怖の念を抱かせておいて,続け様に天国教育をすることによって,国民は善人へと進み歩むのではないだろうか.なんたるプロパガンダ.
何かを仕向けたり,そうさせようと思った時,恐怖で従わせることは教育的な側面から正しくないのだろうか.論理的に説明されても分からないような年齢に,「悪いこと」を直感的に認識させるのに,地獄教育は一定の効果を発揮すると思うのだが・・・.
その昔に言えば,夏休みの終盤というのは当然のように宿題がほとんどそのまま残っているわけで,宿題の解決を強制されるわけです.もっと分かりやすく言えば,「算数の宿題が終わるまで,おやつ抜きだからね!」ということだ.これは恐怖による支配ではないのだろうか.そうだ.オレは恐怖に支配されて育ったんだ.それが今はどうだ.自主性を尊重とか,ゆとり教育とか,夏休みは休むためにあるとか,終わらない量の宿題を出す方が悪いとか,全く以て狂ってる.親は教育の義務があるのだから,恐怖で支配してでも宿題を完結させる義務があるはずだ.
程度は違えど,世の中は恐怖が支配している.大学生は単位を盾に勉強を強要される.卒研生は卒業単位を牛耳られている.就活においては遅刻は致命的である.社会人は仕事に失敗したらクビか減給だ.
地獄教育はそれだけではダメで,その対となる天国教育が必要なんじゃないかと思う.言うなれば,飴と鞭.でも,地獄教育が先行するのだから,やはり鞭と飴か.
匿名は卑怯だとか,Anonymous Cowardだとか,色々あるわけですが,ちょっと実名と匿名について考えてみた.大した内容ではないので,便所の落書きで.
匿名のメリットは特定されないことだろう.そのメリットをどのように活かすかだ.ちなみに,匿名と仮名は違うので,適切に解釈してください.このブログは匿名ではなく,仮名です.仮名の中身が1人かどうかはわかりませんけどね.仮名は特定可能です.識別可能です.ID紐付けができるかどうかは別にどうでもいいですが.匿名はある匿名者Aとある匿名者Bが同一かどうかを特定させません.それが匿名です.だから,2chのトリップ付きやID付きは匿名ではなく,仮名の状態です.でも,まぁ,その辺の厳密な切り分けもどうでもいい話なので,ひっくるめて匿名で.
実名のメリットはなんだろう.不特定多数の人に,ある特定の実名実在の人物が何を考えて,何をして,何を主張しているのかを知ってもらうことができることだろうか.でも,それは逆の視点で見ると,デメリットとも言えそうである.なぜならば,2ch(匿名)で「やかましいわ」って言ってもなんら大した問題にならないけど,ちょっと実名で,ちょっと有名(オレは知らんが)で,ちょっと権力のある人が「やかましい」っていうと問題になる.あ,違うか.この人は問題だと思ってないみたいだからねっ!そうだよね.ニュアンスって大事だよね!発言者の意志なんて関係なく,聞き手がどう理解したが大事だよ.だから,注意深く発言しよう.とりあえず,政治家は言葉を使う職業なんだから,誤解されない日本語を使って欲しい.ホワイトカラーエグゼンプションとか,マネーロンダリングとか,マジで意味不明だから.一般的な日本人に理解できるように説明できない政治家なんて,要らないよ.難しいことをしてても,説明するときは分かりやすく言ってくれ.それが切実に求められるのが,博士かな.違うかな.
閑話休題.上に挙げた例は良くない例なのだが,実名のデメリットを匿名のメリットで置き換えられると思う.例えば,ものすごい権力者が世の中の問題に言及したいと考える.でも,それはそれは発言力がありすぎて,世間が混沌としてしまいそうだ.そんなとき,どうやって問題提起をしたらいいか.それが匿名ではないだろうか.匿名になれば,権力の笠は失われ,単なるACに成り下がり,意見を述べることができる.その述べられた意見が取り上げられるかどうかは,その主張内容如何にかかっていると思う.権力でものを言うのではなく,その主張内容でものを言えるのだ.これは匿名の十分なメリットにならないだろうか.
もちろん,匿名のデメリットである,無責任な発言は問題になると思うけど・・・.そういう意味では,権力(発言力)を排し,主張内容だけで見られるところを考えれば,本当に主張したいことこそ,匿名でやるべきなのかもしれない.
発言は匿名で.責任は実名で.そのぐらいの覚悟って,かっこいい.
最後の授業 ぼくの命があるうちに DVD付き版
著者: ランディ・パウシュ,ジェフリー・ザスロー
訳者: 矢羽野薫
価格: ¥2310(税込)
出版社: ランダムハウス講談社 (2008/6/19)
ISBN-10: 4270003502
ISBN-13: 978-4270003503
まさかの2日連続レビュー.夏休みの読書感想文コンクールに挑んでいるわけではありませんので,あしからず.小学校の宿題として,このブログをコピペして提出して頂いても構いませんが,書評と読書感想文は違いますから.残念.
閑話休題.2008年7月25日に亡くなられたカーネギーメロン大学のランディ・パウシュ教授.この本は2007年9月18日にCMUで行われたランディ・パウシュ教授の最後の授業を記録したものである.この本は2種類が発売されており,書籍のみとDVD付きがある.DVDには70分を超える最後の授業が収められている.この映像はなんとYouTubeにて見ることができる.YouTubeの映像はオフィシャルのもので,全編を見ることができる.だが私は800円の差を以てしても,DVD付きをオススメする.手元に保存したい映像だからだ.
私はこの最後の授業がYouTube等で見られることは知っていたが,なんと言っても英語だったことがあり,見たくても見れない状況だった.それが幸か不幸か,訃報に際して,訳本のDVD付きがバカ売れしている旨を知り,訳本ならびに字幕付き動画があることを知ったのだ.それはそれは,即座に注文をしました.やっとまとまった時間が得られたので,今日ついに,私にとって最初で最後となる彼の授業を受講しました.
ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書 687)
著者: 梅田望夫
価格: ¥777(税込)
出版社: 筑摩書房 (2007/11/6)
ISBN-10: 4480063870
ISBN-13: 978-4480063878
昨年の12月に手に入れて以来,買ったことすら忘れて放置されていたのだが,私塾のすすめを読んだことによって,その存在を思い起こし,やっと読み切った.読み切って振り返ると,何故途中で読むのを辞めて放置していたのかがわかった.どうにもこの本には感情移入しづらかったからだと思う.オレは本を読む際は,ブログを書くときのために,ドッグイヤーを付けながら読むわけだが,この本のドッグイヤーはものすごく少ない.つまり,オレはあまり興味を持たなかったようだ.だからといって,内容が悪いわけではないので,興味を惹かれた部分を引用しつつ,書評.
むろん現在のネット空間には,そんな理想的な話ばかりでなく「負のエネルギー」が撒き散らされていることも事実である.知や情報の空間が巨大だからといっても中身は玉石混淆で,リアル世界の選りすぐりの知に関しては,まだほんのわずかしかネット上には載っていない.たとえば日本の研究者や大学教授で,ブログを書き,自分の論文や著作の背景にある発想や思考過程をネット上で公開し,リアルな授業を録画・録音して不特定多数に向けて発信しようとしている人はほとんどいない.ウェブ進化などまだ始まってもいない段階なのだとも言える.
ウェブ時代をゆく pp.18-19
正にその通りで,膨大だといわれるネット上の情報はまだまだ足りない.それは図書館という優れた知識の宝庫に対し,圧倒的に情報量が少ない.だから我々は,ネットの可能性を少しでも広げるために,玉石混淆であっても,多くの情報をネットに向けて発信していくことには意味があると思っている.価値があるか無いかは,情報がそこにあってこそのことであって,無いものに関する評価はできないのである.
そして,研究者はもっとブログを書いたらいいと思う.もちろん,企業の研究者は利益があるだろうし,守秘義務とかがあるだろうから,なかなか難しいかもしれない.でも,みんなの研究目的って同じではないのだろうか.何かを良くしようという目的を持っているのではないのだろうか.そのためならば,みんなで情報を共有して,交換して,議論して,高めればいいはず.例えば,誰かがものすごく良い発想をしたとしても,それを実現する手段を持っていなかったとする.実現する手段がないので,発表がされないとすれば,その発想は日の目を見ることなく,お蔵入りしてしまう.そうならないように,色々な意見や発想や思いつきは言っておくもんだと思う.それを見た誰かが触発されて,脳みそがぐるぐる回り始めて,シナジーが発生するかもしれない.そして,それは実現されるかもしれない.オレは思うんです.必ずしも自分が成し遂げなくても,全体としてそれが達成されるならば,それは貢献したと言えると思う.評価がどうこうとか,主論文数がどうのこうのとか,そういう問題は山積ですが,社会に貢献することに関してはそうあるのが正しいと思う.だから,ブログだよ.情報配信だよ.可能性は開く方向で,お願いします.
あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい陰の世界から解放され、軽やかに なり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち『これで いいのだ』と。
平成20年8月7日,森田一義の弔辞.
私塾のすすめ ─ここから創造が生まれる (ちくま新書 (723))
著者: 齋藤孝 梅田望夫
価格: ¥714(税込)
出版社: 筑摩書房 (2008/5/8)
ISBN-10: 4480064257
ISBN-13: 978-4480064257
how to系以外で,久々のヒット.これはすごい.☆10個を付けておきたい.2008年上半期の最良書として推しておける.間違いない.
いつもみたいに,引用しつつコメントしていきたいところなのだが,ほぼ全文を引用しなくてはならないので,割愛せざるを得ない.書籍全体から強いインパクトを受けているが,その中でも特にここだけはという部分のみを引用し,コメントしたい.本当に,全体が素晴らしく,どこがどうこうというレベルじゃない.
学ぶための条件が飛躍的に改善された今,学ぶモチベーションの強弱によって,学習の格差は広がってしまう.だからこそ,今,「私塾」というコンセプトを強調する意味がある.そう思っています.私淑ならば今すぐできる.私塾的空間もどこでも現出できる.
これが,梅田さんと私の世の中への提言が,「私塾のすすめ」となった所以です.
私塾のすすめ p.12 ll.4-7
ゆとり教育を始めとして,旧来の詰め込み教育から変革を遂げてきた今,旧来に比べ,学校で学べることは本当に減少した.それと同時に,多くの「自由な」時間が与えられた.時を同じくして,インターネットが急速に普及し,ブログやwikiといった新しいWebツールが出現し,周辺の情報環境は一変したと言える.今までは物理的に手の届く範囲からしか学べなかったことが,物理的に手が届かない範囲から学ぶことが出来るようになったのだ.それは海を越え山を越えて,遙か世界の彼方であってもだ.言うなれば,現在の情報環境は,私淑する人達との距離がグッと縮まり,簡単に「私塾」を生み出すことを可能にしていると言える.質はともかくとして,誰でもが私塾を開くことが出来,誰でもが私塾に参加できる環境が,今この世界には存在し得ている.このブログも極限られた一部の人にとっては私塾的位置付けにあるらしい.とても嬉しいことだ.規模が小さくても,大したことが無くても,それでいいんだ.私塾なのだから.
齋藤 梅田さんは「けものみち」と「(学習の)高速道路」という言葉をつかわれていますが,今の時代ですと,大学でも,「高速道路」をいかに整備するかというのが目的になってきつつあって,「けものみち」を歩かせる大学生活って,あまりないですね.(中略)整備された道路を走るのは効率もいいし,大学は徐々に良くなっていると僕は思いますけれど,ただ,たとえ整備されたカリキュラムがあっても,個人的感覚としては「けものみち」を歩いている感じをもっていてほしい.
梅田 「けものみち」だと,固有の道が歩けるわけだから.実はもう人生にレールなんてないのに,レールがあるようなことを言う人が多いので,僕はあえて「けものみち」という言葉を使ってみたのですが.
私塾のすすめ p.34 ll.2-11
この話を知るためには,梅田さんのウェブ時代をゆくを読むといい.といいつつ,手元にあるのに,2章までしか読んでないオレがいる.オレが思うには,大学は道を整備しすぎた.カリキュラム通りに取れば,卒業単位が取れてしまう.自由意志が介在しないし,選択の自由を行使する必要性がない.オレの学部時代はどうだったか.確かに必修科目はかなりの量があった.しかしながら,必修だけでは卒業単位数に満たないため,選択科目を履修する必要があるのだが,その自由度は高かった.自由度が高すぎて,情報系なのに物性や回路まで制覇し,教職課程でもないのに176単位を取るというぶっちぎりの学習意欲を見せつけてきた.それは本当に「けものみち」だった.ただ,何が違ったかといえば,「けものみち」を全て踏みならして,「遊歩道」にしてしまったことくらいであろうか.歩いてきた道は「けものみち」だった.決して「高速道路」ではなかった.でも,今振り返れば,そこは「けものみち」ではなく「道路」になっている.自分の前に広がる世界は全て「けものみち」だろうし,後ろに広がる光景は見渡しが良く,視界が開けていなくてはならないと思う.前も後ろも「けものみち」では,完全に道に迷っているのと同じだと思う.
梅田 齋藤さんが「福沢諭吉と自分が似ている」というのを,過去の無限ともいうべき人物の中から,書物を通して見つけ出されたわけですが,ウェブは,現在の生身の人間の中から探すことができる道具だと思うんですよ.
齋藤 なるほどね.福沢諭吉のように「あこがれ」とともに共感できる人物をクラスメートのなかに見つけるというのは至難ですからね.
私塾のすすめ p.43 ll.7-11
オレは当てられやすい人間なので,自己同一性を維持するよりも自他同一化してしまうことの方が多い.だから,ここで述べられているような「あこがれ」や共感できる人物を見つける必要はなかった.その時その時に与えられた環境の中で,最良の「あこがれ」に常にすり寄っているようなものであって,そういう意味では常に「あこがれ」に憧れているのかもしれない.なお,今の「あこがれ」の対象は齋藤孝である.間違いない.単純だな.
理由その一:知的生産性をあげるため
理由その二:自分の研究や活動、そして、それを生み出すプロセスを、いろいろな方々に、知ってもらいたいです
理由その三:自分に関連が深い仕事に、すぐにつながる可能性があがる
理由その四:ブログを通して「人がつながること」がなぜか嬉しい
理由その五:志の高い人々と一緒に仕事がしたい
ブログ(≠日記)を書いている人は,多かれ少なかれ,上記のいずれか,または複数に該当するのではないだろうか.オレにとっては,その一とその二が該当します.その三とその五はそうあって欲しいとは思うけど,オレ如きが何を言っているんだと.
「ブログだから」と軽視する人たちがいるわけだが,「ブログ」というツールが悪いのか?オレはブログ全盛以前においても,静的なHTMLで開発記をつけていた時期がある.ブログというパブリッシングツールは,マークアップに気を配らずに,情報配信にだけ注力でき,そういう人から余分な負担を多く取り除いた.
ブログの時代は終わった
などというナンセンスな主張を見かけるが,鵜呑みにしてはならない.終わったのは「ブログで日記を書く」流行だ.ブログはあくまでパブリッシングツールだ.今のところ,情報を積極的に不特定多数に発信しようと思ったとき,ブログほどに便利なツールは思い当たらない.つまり,何が言いたいかと言えば,日記はパブリッシングされるべきものではなかったということだ.
そういう意味で,最近は(最近か??)mixiやらモバゲーやらが流行っているそうだ.mixiはなんとなく惰性のような気もするけど.モバゲーはナウなヤングにバカウケらしい(死語).それから,何が面白いのかわからないけど,プロフってのも流行っているようだ.自分を知って欲しいということなんだろうけど,プロフだけだとコミュニケーションがとれないし・・・.いや,使ったことないから,どうなってるのかもわからないんだけど・・・.
だから,ブログですよ.ブログならコメント欄もあるし,トラックバックもあるし,メールでの連絡だって可能.携帯電話からでもPCからでも,見れるし.オレはね.ブログは情報発信する場であるとともに,議論する場であれと思っているんです.議論するとなると,コメントかトラックバックになるわけだけど,トラックバックは相手がトラックバックを打つ仕組みを持っていなければならないし,コメントは議論するにはあまりにも貧弱なシステムである.はて困った.何か良いツールはないのだろうか.
オレはブログ(≠日記)を書くことを強く推奨している.「こんな下らないこと」って思うようなことでも,誰かの役に立つかもしれない.現に,「ちょっと調べればわかるだろう」というような内容でも,それを必要な単位でまとめておくと,案外ググられてくることが多い.トラブルに遭遇したときに,その解決方法をまとめておくと,多くの人の役に立つ.エラーメッセージをそのままググると解決方法が見つかる世の中って,素晴らしいと思いませんか.普段は何気と気にも留めていないようなことも,文字として目にすると,気づかされたり再確認したりするものではないですか?
まとめ:
ブログはパブリッシングツール.役に立つとか立たないとか,そんなことを気にして書かずに,とりあえず書いておく.必要とされる情報はグーグル先生が導いてくれる.情報は広くに伝わるように.
褒めるな危険.4.0ってことはないでしょ.数割増ってことはあっても,数倍ってことはないでしょ.ご指名いただいたので,少し書いてみる.
ていうか能力値の上げ方は僕もわからない.むしろ知りたい.先輩がどうやって能力値4.0まで到達したのか知りたい.<何
4.0はないと思うけど.ここでいう能力値ってのは勉強ができるとか,知識があるってことだと仮定します.基本的に,オレはチキンなんだ.「失敗したらどうしよう」「知らないことがあると落ち着かない」「オレは決められたレールを走り続けるんだ」というような,基本的に後向きネガティブ思考です.そうしたときに,どうするか.信じるべき自分を保つしかないのです.受験で失敗しないように,可能な限りの最大限を行ったし,準備されたレールの上を走り続けるために,一生懸命勉強してきた.そんなモチベーション.チキンなんで,失敗したら取り返しがつかないと思っています.だから,そうならないように,その時に出来うる最大限を行い続けてきた結果,こんなんなっちゃいました.って感じ.答えになってますかね?
自分なりの整理法を確立すると良い.要領が悪い人に限って情報の整理が下手で「どこにあるかわかりません」とか言う.逆に先輩は情報の整理が非常に上手い.やっぱり要領のいい人だ.
褒めるな危険.自分にとっての整理法を確立しておくのは重要なことだと思う.だから,オレ流の情報整理術がみんなに有用かどうかは知らない.オレにとってはベストだと思う.オレは要領がいいのか?ただ単に,何かを訊かれたときに「わかりません」っていうのを極端に恐れている結果に過ぎないのだが・・・.
寝る前のちょっとした時間は本を読んだり,明日はあれやってこれやってという1日のシュミレーションをすると,次の日本当に効率良く動くことができたりする.おすすめ.
オレもオススメしておく.イメージトレーニングが重要なように,自分の明日を設計しておくことは重要.上手くいかなかったときに,どう修正したらいいのかの目安を作りやすい.ちなみに,「シミュレーション」だ.
例えば金曜の夜に飲み会があって,土日にタスクを持ち越さずに参加したい!と思えば,それまでの平日に多めのノルマをこなせばいい.
そそそ.これもスケジューリングで解決できる問題.二重三重に〆切を設定しておき,本当の〆切を超過しないように,上手く調整をする.そのためには,長期的・中期的・短期的な計画が必要.何も考えずに,明日を生きようなんて,贅沢すぎて羨ましい.
最後に,Appleの設立者の1人であるSteve Jobsの有名なスピーチをここに置いておく.
これを見て,影響されない人はなんなんだろう.アイデンティティがそうさせるのを邪魔しているのなら,そんなアイデンティティは捨ててしまえばいいのに.