教育観

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今日は論破された感があったけど,オレの哲学は負けたと思っていない.オレのプレゼンテーションが劣っていたに過ぎないと思っている.酔っていたからね(いいわけ).

指導教員を超える学生がいたとして,一体何が問題か.全ての学生が指導教員を超える存在であれば問題だが,特異な学生が現れた場合において,何故,指導教員が学生よりも必ずしも上でならなくてはならないのか.自分を上限と見て,育てる学生は自分以下しか育たないなんて,学生に対する制限を求めているので,オレは到底受け入れがたい.同時に,我々大学教員は自分を超えうる最大限の人材を育てる努力を常にしなくてはならず,自分を基準として,指導教員と学生の立場を鑑みて,自分が常に(知識や学術面において)優位に立っている必要性はあるだろうか.ボクにはわからない.自分よりも優れた学生を育て上げることが使命ではないのか?自分よりも劣る学生を育てることが使命なのか?ボクにはわからない.

可能性は常に開いているべきだし,学生の可能性を常に信じるべきだし,学生の上限を我々が決めてしまっては行けないと思っている.

そんな理想を語った今日.理想を語らない人は理想には近づけない.理想を語れないなら,まずは理想を求めるべきだ.と,酔ったオレが言っております.

この文章はフィクションであり,事実に基づいているかどうかはわかりません.明日はSBM研究会で早起きです.

コメント(2)

>育てる学生は自分以下しか育たないなんて,
こう思った時点で負けな様な気がします.

もちろん,自分を超える学生は出てきておかしくないです.
むしろ,いた方がうれしいと思います.しかし,指導者として
その学生に何ができるのでしょうか?学生は指導を受けるために
進学して,ここまで「頑張って」やってきているわけです.

4430さんの言い方だと「超えられちゃった.あはは」で,
自分を超えた学生に対して指導する事を放棄しているように
言っているように見えます.指導者は指導する立場として,
「影で」その学生を超えるほど頑張って,あたかも,
「指導者は君なんかじゃ到底超えられないんだよ♪」と素知らぬ振りをして
さらに指導するべきではないでしょうか?


>学生の上限を我々が決めてしまっては行けないと思っている.
指導者に上限を設けなければいいだけですw

これが,僕の理想です♪

違うよ.全然違うよ.

指導を放棄なんかしていない.言いたいのは何かを訊かれた時点で,常に答えを返せなくてはならないことはないと言っているのであって,後日改めてでも「これはあれこれそうでこうこうこうだよね」と議論や指導ができることが重要だっていうはなしです.特に研究においては,未踏なことをやるのだから,常に答えなんて持っていないし,直感で行けるか行けないか判断つかないことだって,いっぱいあります.

それはそれとして,別の話ですが,学生に何かを教えるということだけが教育者の役割ではなく,最近の流行である「気づき」が重要だと思います.してすれば,それは教育者と学生の関係において,能力の優れた優れないとか,知識が多い少ないとかではなく,はてブコメにもあるように,「経験」が力になると思うのです.

大学は教育機関の最高学府として,社会人たるに相応しい卒業生を送り出すことが使命であると思います.それは知識面でも能力面でも人間性の面でも.

> 「影で」その学生を超えるほど頑張って,あたかも,「指導者は君なんかじゃ到底超えられないんだよ♪」と素知らぬ振りをしてさらに指導するべきではないでしょうか?
これは同意.酔った勢いでつらつら書いたから消そうかと思っていたけど,はてブがついていたので消さなかったし,何も修正加筆していない.書きたかったのは,常に学生が指導教員よりも下の存在であると決めてはいけないという話.

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